茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

翻訳されているけど外国語か?

 とある韓国語のコンテンツを日本語字幕をだして眺めていたが、なにがなんだかさっぱりわからない。日本語だけど日本語じゃないみたいだ。

 内容はバラエティで、タレントさんがちょっとした遊びをやっているみたいな感じ。

 そういう内容だから、ビッグバンセオリーみたいに、アメリカのコメディドラマより難しい、とは思う(ビジネス、日常会話、コメディやギャグとだんだん難易度が上がる)。翻訳されていても、そもそも前提がわからないことが多いから、なんの話か、何が面白いか、なぜそういう会話になるのか、いろいろわからないのだ。

 みていたコンテンツは、他愛もない、というのにふさわしい、難しいことをなにもしていないのだが、なにひとつわからない、に近い。

 翻訳も、機械ではないが、あまりこなれていない。若い同世代同士の会話なのに、多くがですますに変換されていて、ひっかかることこの上ない(言語、異文化、かつ世代間ギャップ)。

 ファンならそんなのもろともせず丸呑みするのか、やってらんねーわとハングルを勉強する、のだろうか。

 最近は、翻訳がついていることが、いろいろなコンテンツで増えてはいる。いるけれども、こなれていなかったり、不自然だったりする。少しはわかるつもりのジャンルでも、変な翻訳だと、自分の中で日本語から日本語に再翻訳しながら見るようなことになり、疲れて見るのをやめてしまう。

 それでも、外国語のコンテンツはいろいろある。言語の勉強は簡単ではない。すでに日本で紹介されているものはたくさんある。たとえば自分がいまタイの俳優さんを気になったら、全力でタイ語の勉強、ではなく、先達の情報を探しに行くだろう。ブログとかサイトとか、どれだけあるかはわからない、そもそも探しにくいとはいえ、簡単に読み切れる量のはずはないだろう。あるいは中国の俳優さんにはまっても同じことをするだろうが、感覚としては、タイのことのほうが、知識は少ないのは明らかだ。中国についていま自分が知っているていどのことがどれくらい役に立つかは、まぁほんとわからんけど、それよりもタイのことは明らかに知らない気がする。そして中東のことは、アフリカのことは、というと、知っている感覚はもっと減っていく。

 久しぶりに、翻訳されてるのに外国語のようにわからない感覚を味わって、ちょろっと考えた。異文化に触れることは、いいことある。