ぶんぶん茶ぶろぐ

人力雑文ブログ

23→24年越しのわんえん

 レコーダーのなかを整理していたら、ONE N' ONLYを捕捉していた。
 2年と10ヶ月ぐらい前の、24年の頭のワンエン。

 メンバーはわりと大人なのだが、だいぶ雰囲気が違う。えいくちゃんが意外と一番変わっていないかも?歌がうまい。他の人は顔が違うし、緊張のせいか顔がこわばって笑顔もおかしい。笑ってはいけない。えいくちゃんまじえらい。

 24年はまだ平和だ。25年以降、EBiDANの皆さんは、M!LKだけでなく、もれなく怒涛の日々になる。停滞していたものが、いきなり動き始めるように。
 15周年の準備は規模が大きいので、24年から始まっていたと思うが。
 大願成就まではまだ道半ばだが、追うものの勢いは強い。
 ワンエンの人たちは体格がよい。だからといって頑丈かどうかはまた別の話しだが、みていて安心感がある。深夜の冠バラエティも群抜きで面白い。いまのところM!LKよりイケてる。まだ事実上1話だけど。次も楽しみだ。
 EBiDANは秀才型が多い。ワンエンは音楽ジャンル的にM!LKほどのブレイクはないと思うが、かなり肉薄すると思う。げんじぶともジャンルが棲み分けできてる。
 ワンエンは歌がうまいのに、歌心があり、かつ、元気でにぎやかだ。気さくなのにバチイケの歌とダンス。かっこいい。



 

慈愛と支配の声

 U-NEXTで昔のアニメ映画、「地球へ…」を見る。キャストの豪華さに笑っちゃう。

 すべてを包み込み、癒し、慰めるような声。すべてを圧倒し、思考を許さず支配する声。

 演じている声優さんは、他の作品では慈愛の象徴であり、別の作品では苛烈な支配者になる。
 両方を演じられるから名優なのだ。同時に、一人の声のイメージが、両方を兼ね備えている。というのが面白い。日本に限らず、世界で同じような話なのか。
 現実世界においても、独裁者はあまったるい声で庶民に近づこうとする。現実はたいてい気持ち悪いけどさ。

逆弁論的雑文2

 我ながら、読めない。読めないものをblogにだしても仕方がない。書いてるときは、あまりわかっていなかった。パソコンのキーボードのよくない点だ。あるいは、単純に精神状態がよくないということか。

 トキトケトークで、海外の、欧米の作家は、日本の作家と仕組みが違う話をしていた。出版や作家界隈でのエージェントという言葉は、むかし知らっている、PARMというマンガで知った。詳しくはない。日本とは違うんだな、と思った。

 日本人は多作というのは、音楽も文章も同じらしい。一冊の本を出すため、というのが、理由なのか。
 日本の作家は、歌人も俳人も小説家も、出版社の都合のいい道具なのではないか、使い捨ての奴隷なのではないか、と思うことはよくある。売れている人、直木賞をとった人の話は聞くみたい。芥川賞と直木賞以外は、最低限の敬意を抱いていないのかも。
 欧米では、多作すぎると、枯れている、てきとうなものを世に出しているのではないか、と思われるという。書かない間のお金はどうなっているんだろう。前払いもあるにせよ、それでまかなえるのだろうか。小説は欧米から入ってきたが、出版の仕組みは江戸時代、あの大河ドラマのまま、なのか。

 エンタメの世界の慣習が、古い感覚のまま。小説はとくに、芸能界より遅れているかもしれない。だから読まれないのかもしれない。ドパガキは小説なんか読まねぇよ、などと言ってる場合ではない。それでは小説は消えゆくばかりだ。
 自分が蓮見翔さんのラジオが好きなのは、ライブ感にあるのかな、と思った。演劇はその日そのときの体験だ。毎回違うから何度も見にいっちゃうのよ〜、などというのとは、また別の話だ。ある人のある日のある一定時間を、役者と観客が強制的に共有する。そのときだけの楽しみではなく、それがその先の生活や人生に、優しく深く影響していく。

 本の場合は時差がある。時差を想定しなければならない。いまのSNSは、とってだしだ。とってだし小説??が、TikTokのような小説はできるのだろうか。TikTokもある程度の撮り溜めと、合間に、その日の撮ってだしなどが混ざってるみたい。

 継続された流れと、その日のいきおい、両方がある。もういろいろ計算されてる。そのノウハウはいつ陳腐化するか知らんけど。

逆弁論的雑文

 内容のないことをつらつらと書いてみる、という出だしの時点で、何か意図している時点で、もうそれではない、ちがう気がするが、なにも意図がないまま書くのは、流れの完全にとまった川のような、ずっと聞いていても全然音が変わらない、鳴りっぱなしのずっと変わらない和音のようで、非常に難易度が高い。書くにはなんらかの方向と推進力がないとダメなようだ。話す方はできるのかというと、やってみたことがないのでわからない。話すほうがもっととりとめがなく適当でバラバラになる傾向はあるので、逆弁論ぽくなるかもしれない。だが、とりとめがないとか、バラバラというのは、個々の要素はあるということになってしまう。こたけ正義感がやっていた逆弁論は、話はどんどん変わっていくし、話の変わり目も終わりもわかりにくいし、個々の話はそれぞれ山も落ちも意味もないような雰囲気だった。そう、やおいなのだ、逆弁論は。
 山というのは、普通の人の話や文章には現れない、落ちも同じだ。意味があるかどうかというのは、話し手のまさに意図による。話を聞いて「オチはないんかい」とキレるのは関西人の悪癖らしいが(主語がでかい)、ふつうのひとの話というのは、山も落ちもあまりぱっとしないものだが、関西人は単なる一般人の語りのレベルをあげてくるよろしくない。つらつらとしていて、今日こんなことがあってねと話したいから話すのであって、だがせめて聞き手のために大事なのは、その出来事のあとに、「どう思った」とか心の動きを言い添えることだろう。さもないと、話を聞いた人は少しがっくりくるかもしれない。でも小さいうちは、子供のおしゃべりというのは、聞くだけで「よかったねえ」とか言ってしまうものだが、そりゃニコニコ笑顔で話されたら、嬉しかった楽しかったよかったねえと言いたくもなるが、もしかして内心は「つまんなかった!」などネガティブな感情だったら、ホラーだな。そうではなく、大人の場合は、出来事だけを話されると、その話自体が面白くない限りは感想を言い添えないと、聞き手は戸惑うかもしれない、しれないけど、それも人によるんですかね。そうかもしれん。

メガネがない

 緑内障の手術で白内障の手術をしたので、もっていたメガネのレンズがまったく合わなくなっている。新しい視力は、0.1ぐらい。その度数はひらたくいえば、選べるのだが、自分は視野がだいぶかけているので、裸眼で手元が見えるほうを選択した。
 すると裸眼でiPhoneをつかえるし、パソコンも文字が大きければいけるけど、その先はぼやぼやの近眼である。
 視力が安定するのは一ヶ月ぐらいかかるという。だからそのくらいになってから新しいメガネを作ったほうが、というのだが。
 いまの自分は、台所作業もぼやぼや、テレビもぼやぼやの近眼である。一ヶ月も無理て。
 古いメガネは度が強すぎて、もっと古いメガネは、何年も目的なくもっていたのに、つい最近、わりと少し前に、捨てた気がする。とっておけばよかったが、それが使えるかもわからない。0.0いくつの人になって長いから。

 とりあえずリーゾナブルなメガネを作って、落ち着いたら、既存のフレームのレンズを入れ替えようかと思ってる。

 頭が悪すぎて、手術をしたらどうなるのか、ずっと理解できずにいた。自分の頭の悪さは人生の限界でもある。