茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

まぶしい、さんすう、数学、言葉は無力か劇薬か

 歳のせいかまぶしさがつらい。サングラスが欲しい。
 生活のなかでまとまった時間が常にとれないので、最近は中学校の数学をまたやりなおしている。何度目の正直かわからない。目標は、都立高校の入試問題の数学で満点をとる、だけど、一生無理かしら。合格点をとったら、高校数学に取り組もう。なんて壮大な計画。


 まったくできなかった数学に戻ろうとするのは、未練や悔しさや、気象に対する憧れがあり、また、溢れる言葉にさすがに疲れてきたからだ。Twitterはすっかり違うメディアになった、天災も戦争も続いて格差社会は変わらず、それらを語る言葉はあまりにも安直安易で、さすがのツイ廃も辟易してきた。
 そもそも、Twitterは自分が、好き勝手に「ねむい」「お腹減った」と随時発信するだけのツールであり、何か情報を得るようなところではないのだ。私のタイムラインは極めて洗練されており、リストもつかいこなしているので、イスラエルガザ地区の凄惨な動画も画像も勝手には回ってこなかった。
 必要があれば、自分で見にいく。そして多分、必要がない。テレビでまとまったものをちょろっとみるほうが100倍増しだ。メディアも誰も中立ではなく、それぞれの主義主張損得に合わせて忖度が行われている。そう思いながら見るしかない。


 言葉というのはこんなにも無力なのかなと思ったり、軽薄すぎたり、強すぎたりして、うんざりする。
 それでいまさら数学を見る。数学も、きちんとした定義の、言葉の定義の積み重ねであり、おそろしいことに自分は、それがなぜかいつまでもずっとふにゃふにゃしているので、数学ができない。数学は、数字の前に定義なのではあるめえか?、と中学から何年後に、いまさらじっと眺めたりしている。たとえば、中学数学にでてくる定義を誦じることができるかというと、「できない」。そこにも問題がありそうで、ぶつぶつ唱えるべきかと検討中。問題を解く以前の問題。



 世の中のさまざまな問題に意識を向けている文章は、お金持ちになりましょうという情報商材の文章とも、似ているところがある。後者が前者を真似ているのか、ひとを説得しようという文章は似たものになるのか。
 いくら主張がよくても、その語気や語調が「気に食わない」と、内容も入ってこない。頼むから落ち着いてくれ、こちらを侵食しないでくれ、そこにいてこちらが入っていくのをまっていてくれ、なーんて、寝ぼけたことを訴える。
 情報は欲しいが、勝手にはいってこられるのは困る、嫌だ、みたいな。


 寝言いってんじゃねえよ、はその通りなのだが。
 体力などあらゆる能力に個人差があるように、人はインプットとアウトプットの量は、自分で制御しなければならない。過剰に侵食されても、過剰に外に吐き続けても、自分を失う。そのやり方や程度には個人差もあるし、年齢や季節によっても変化する。そういうことの影響を受けにくい人は、不屈の精神のせいではない、ただたまたま体力があるだけなので、それを自身でフル活用するのはかまわないが、他人に同じ程度を要求するのは体力を根こそぎ奪われてもいいほどの罪だ。


 また言葉が荒れてくる。荒れてくるのもいやなんだ。もうニュースなんかみないほうがまともに生きられるのだろうか。見過ぎなのだろうか。