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脊髄反射でオブラート

chaoruko@HatenaBlog

隣の芝生は青くて苦い

どのようなファンのなかにも、内輪でしかわからない用語やネタはある。何が面白いのかわからないことを延々と繰り返したり、笑い転げたり、感動したり感謝の意を五体投地で示そうとする。外部から見れば、何をやっているかわかったとしても、何が楽しいのかさっぱりわからないことは多い。好きでない限り、たとえ好きでも、必要と思わないなら知る必要はないし、知らないことで困ることはない。ましてや蔑んだり憎むことはない。その集団からなんらかの被害を受けたりしない限り。そういう場合は多少仕方がない。愚痴や文句もでてしまう。それでも実はその対象は悪くはないのだが、怒りの矛先はシンボリックなものへ向かう。

 

特に被害も受けないのに、なぜかぽろりと差別的発言がこぼれるときがある。ファンの内輪受けがひどくくだらなく寒々しいものにみえ、その感覚を言葉にして放ってしまう。実は外は何も変わっていなくて、自分が変わっただけなのだが。

 

自分が変わった故にそれまで魅力的にみえていたものが陳腐化したり、別に気にしていなかったことにケチをつけることは、多々ある。変わりゆく戸惑いやストレスか、優越感故か。

 

少年少女が大人になる途中で言動が変わるのは微笑ましいが、大人になったあとではそればかりではない。好きでなくなる、何故かケチをつけたくなる。それは対象やそのファンが変わったのではなく、たいてい自分が変わっている。

 

この種のトラブルや諍いは珍しくない。大人だって変化するタイミングがいろいろあるからだ。大きなものは結婚と子育てだ。後者は不可逆的で、いちど子どもをもってしまうと、もっていなかった間がたとえ40年近くあっても、もう元には戻れない。たくさんのことと引き換えにして子育ては行われる。若さを除いてほとんどはいつか時間がたてば戻ってくる。だが子どもがいない状態には、子育てを終えても戻ることはない。

 

子どもを持たない人は子どもがいる人の気持ちはわからない、となんとなくわかってる。子どもがいる人は、かつてはいなかったのだから、いないということも知っているはずだ。だがそれは思い込みだ。状況を思い出すことができても、その頃の考え方やふるまいなどはもう二度とできないのだ。特に子育て真っ最中という人は、あらゆることが子育てに優先した思考になっているから、ギャップは大きい。

 

埋めがたい差がある。持つものと持たざるもの、得たものと失ったものか。得ていないものを喪失というの変だが、子を持つ人は大きな喪失と引き換えに子どもを得ているのかもしれない。喪失は他のものでは埋められない。いびつな形になったところに、新たに出会ったものをひきよせてまた別の新しい形を作る。