茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

キツツキの音

 キツツキの音なんて本物はきいたことがないけれど、大規模修繕の外壁調査の音は、キツツキの音、何かの生き物の音のように聞こえる。鳥のような、虫のような。なぜ虫の音だと思うのか。音には二種類あって、カツカツカツカツカツといういかにも叩いている音と、カカカカカカという小さい連続音がある。虫がたてている音みたいだが、もしほんとうに虫がこんな音をたてていたら、かなり怖い。鳥の音だと思うほうが多分良い。
 工事は工程によっていろんな音がする。きっと匂いもする。振動はあるかわからない。これからいろいろ「どひゃー」「うひゃー」と驚くのだろう。頭上からの爆音は、工事の音だとわかっていてもちょっと重い。気が滅入る。
 そしてうえのがきんちょはどさくさに紛れてあいかわらずボンボンドスドス音をたてて走り暴れ、7時台に暴れまくるのはよほど荒れた荒んだ生育環境だとしか思えない。成長に合わせて音は大きくなっている。「しつけがなっていない」とは奥が深い。「結果的に苦労するのはその子だ」いうのは簡単だ。「他人事だ」。しかし早い段階にある程度は矯正しておいたほうが、結果として楽なのかもしれない。その子の未来はその子のものだが、すべて自分でコントールできるわけでなく、いつのまにか、保護者の責任から本人の責任になる。
 そう、鳥の音だ。いきもののような音だ。そりゃたしかに、人間がたてている音なので、ある意味は生き物の音である。しかもたしか、タイルをすべて叩いて、おかしいものを見つけ出す。気が遠くなるような作業だ。頭が下がる、ひたすらに。
 一般的な人が住むような建物は、どれくらいの年月を耐えることを想定して作っているのだろうか? ものすごく難しい問題だ。そして家賃とか持ち家とか。賃貸だったらここには住めていない。でも永遠には住めない。お金はかかる。建物にも、家のなかにも。
 きりがない話なので、虫のような音だ、鳥のような音だと、ぼんやり耳を傾けながら眠くなる。

なぜ物語を書くか

 じぶんは10歳ぐらいのときから、将来は小説家になって自由気ままに暮らそう、というダメ人間な夢を抱き、サラリーマンになり脱落しニート主婦になってぼんやり生きているのだが、それでもなぜ書くことをやめられない、かつ書き上げられないのだろうか、という問題もずっとぼんやり抱えている。
 書き上げられない問題は、このさいちょっと置いておこう。小説を書いて金を稼ぐというぼんやりした話も傍におこう。なぜ書くことをやめられないのか、である。
 ブログを書くのは、簡単なストレス発散だ。Twitterもそうだが、長い独り言であるにすぎない。伝えいことではなく、単なる言いたいことである。
 では物語を書くことは、なんなのか。うまくいかなくて挫折してばかりで、しんどいので途中でやめてばかり。しかし、しないでいると、数日たつと、なんだかぞわぞわ落ち着かなくなる。想像の物語を、たとえワンシーンワンカットでも、妄想するだけでなく、具体的に書かないと、頭のなかにおりやかすや水垢なのか何か溜まっていくような感じがする。それが具体的に不満とか意見とかよくわからないけど。それを掻き出してスッキリさせるような作業が、なぜか小説にある。だから、書くだけなのだ。読む行為にも似たものはあるが、読むほうが外部からの刺激が強く、大変ちゃ大変である。自分で書く分には、しんどくなったらやめればいよい。なにか溜まったゴミみたいなものがなくなったら、そこで作業をやめればいい。

 いやそこでもう少しがんばろうよ!
 うちなる天使と悪魔がどうじにツッコミ担当になる。
「もう少し黙ればいい(ものが書けるかもしれない)のに」と言われたのはもう四半世紀前だが、その指摘は圧倒的に正しい。


 真面目に「書く」となると、それはおそらく、筋トレとか楽器の練習と同じで、すこししんどいを我慢し続けなければならない。閾値をこえ続けないと、何かにはならない。筋トレも以前にくらべたら、ようやく「服を買いに行く服がない」状態はかろうじて脱してきたし、バイオリンもとにかく音階とかセブシックとか基礎トレをやるしかねえべな、という技術的なコツコツ方法をなんとなくしっている。「書く」ことはそれがわからない。絵も毎日デッサンとか、なにかありそうやん。「書く」の基礎トレってなんだろう。
 ブログやツイッターは間違いなく、基礎トレにはなっていない、残念ながら。

悲しい気持ちの夢を見た

 夢の中での感情はあいまいだ。ふかしぎふじょうりを、なんとなくぼんやり受け入れているから、判断も感情もぼんやりしている。でもときどき、強い感情の夢は見る。いままでたいていそれは「すごくドキドキしている」「なんか怖い」「すごく怒っている」のいずれかだったが、すごく悲しい気持ちの夢をみた。
 内容が悲しかったわけではない。
 ワンピースを買いたいから買いに行くのにつきあってと家人に頼んでいた夢と、ハワイなのかどこかよくわからないところのホテルにいったらホテルが工事中で壁が隣の部屋とつながっていてとりあえず海に行くかと水着をだしたらピンクのふりふりのだっさいやつでという夢を2本みたら、すごく悲しい気分で目が覚めた。
 そもそも夢なのだから、怒るにせよ悲しむにせよ、対象や原因は曖昧である。しかしすごく悲しい気持ちで、ウツウツしい気分が、昼ぐらいまで抜けなかった。
 悲しい気持ちは怒りよりずっと辛い。辛い気がする。
 悲しい気持ちは苦手だ。すぐに泣く。ぴゅっと泣く。むかし近所でぼろぼろの猫がいて、姿を見かけなくなったとき、びゅびゅっと泣いていた。
 悲しい気持ちのとき、みんなどうするのだろう。知らんけど。
 ちなみに「すごくドキドキ」は宇宙人がやってくるとかそんなやつが多い。宇宙人が襲来するらしいのに、まじでまじで?とうかれていたりする。怖い夢は、もうはっきり思い出せない。怒っている夢はむかしより多い気がする。現実世界のイライラが適当にでてくるのだろう。

エンドレスエイトを見直した

 毎日毎日続く近頃の日々の生活がなんか……とぼんやり感んじて、ハルヒエンドレスエイトを見始めた。すると新作の情報がでて、ありゃ面白い。

 以下、エンドレスエイトのネタバレありです。読む予定も見る予定もない方はどーぞ。

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銀英伝を途中で見るのをやめた

 Amazonプライムでむかしの銀英伝がきて、30年越しぐらいにはじめて見てみた。
 みてみると、最初はふーんはーんほーぐらいだったけど、気がつけばヤン・ウェンリーの語り口にはまりかけていた。そのほかのキャストも、時代的に刷り込まれている、馴染みのある人が多くて、吸引力が強い。おそろしや。いつのまにかちょっとはまりかけていた。面白かった。ある意味面白すぎた。面白くなりすぎて、途中で
「ダメだ」
と思った。観るのをやめることにした。この先には、こういう視聴の仕方では、もうただ消費するだけで、なにもない。過去にそんな見方、読み方をしたものはたくさんある。
 とちゅうから、ただひたすらに「次どうなるのだろう」だけが頭をしめ、何を読んでいるか、みているかわからなくなってくるのだ。
 そういう作品は、もうみたり読んだりしないようにしている。作品の良し悪しは関係なく、むしろ、そう強く思わされるほど、エンタメとしてはすぐれた作品であるかもしれない。

 銀英伝アルスラーン、アニメや漫画から察するに、作者は、そういう話や展開が、職人的にうまいのだろう。それは普遍的な部分も多い。だからリメイクしたり、コミカライズして、面白さを次代に引き継いだり、その良さを広めるのはいいと思う。だがそれは、原作はあくまでも原作であある。他のメディアにする「新しい作品」をいまこれから作るときは、ちゃんと脚色、変更して、時代に合わせていってほしい。そうでなければ、「古臭い、時代遅れ」という印象が強くなり、のちに面白い部分も埋もれて歴史の一ページになってしまう。
 歴史ものの人種を、白人から黒人にして、いやそれは史実としてどのていどあれなの、ということはある。もしかして実際はいたのに歴史から消されている可能性もある。女性にしてもそうである。
 だがSF作品においては、未来をみるべきだ。古典SFをそのままリメイクして事故ってる例は他にもある気がする。銀英伝もリメイクがなければ昔のもみなかったかもしれないけど、プラスマイナスゼロの感覚がすごい。適切なタイミングで出会っていれば、はまっていたかもしれない。そもそも十代のころからずっと、作品名は知っていた。それなのに読んでいなかったのだから、ご縁がなかったのだ。アルスラーンも荒川さんは好きだけどもう売却してまうかもしれない。良し悪しではなく、タイミングとご縁だ。