茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

なぜ物語を書くか

 じぶんは10歳ぐらいのときから、将来は小説家になって自由気ままに暮らそう、というダメ人間な夢を抱き、サラリーマンになり脱落しニート主婦になってぼんやり生きているのだが、それでもなぜ書くことをやめられない、かつ書き上げられないのだろうか、という問題もずっとぼんやり抱えている。
 書き上げられない問題は、このさいちょっと置いておこう。小説を書いて金を稼ぐというぼんやりした話も傍におこう。なぜ書くことをやめられないのか、である。
 ブログを書くのは、簡単なストレス発散だ。Twitterもそうだが、長い独り言であるにすぎない。伝えいことではなく、単なる言いたいことである。
 では物語を書くことは、なんなのか。うまくいかなくて挫折してばかりで、しんどいので途中でやめてばかり。しかし、しないでいると、数日たつと、なんだかぞわぞわ落ち着かなくなる。想像の物語を、たとえワンシーンワンカットでも、妄想するだけでなく、具体的に書かないと、頭のなかにおりやかすや水垢なのか何か溜まっていくような感じがする。それが具体的に不満とか意見とかよくわからないけど。それを掻き出してスッキリさせるような作業が、なぜか小説にある。だから、書くだけなのだ。読む行為にも似たものはあるが、読むほうが外部からの刺激が強く、大変ちゃ大変である。自分で書く分には、しんどくなったらやめればいよい。なにか溜まったゴミみたいなものがなくなったら、そこで作業をやめればいい。

 いやそこでもう少しがんばろうよ!
 うちなる天使と悪魔がどうじにツッコミ担当になる。
「もう少し黙ればいい(ものが書けるかもしれない)のに」と言われたのはもう四半世紀前だが、その指摘は圧倒的に正しい。


 真面目に「書く」となると、それはおそらく、筋トレとか楽器の練習と同じで、すこししんどいを我慢し続けなければならない。閾値をこえ続けないと、何かにはならない。筋トレも以前にくらべたら、ようやく「服を買いに行く服がない」状態はかろうじて脱してきたし、バイオリンもとにかく音階とかセブシックとか基礎トレをやるしかねえべな、という技術的なコツコツ方法をなんとなくしっている。「書く」ことはそれがわからない。絵も毎日デッサンとか、なにかありそうやん。「書く」の基礎トレってなんだろう。
 ブログやツイッターは間違いなく、基礎トレにはなっていない、残念ながら。