茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

メモ:西炯子とよしながふみとドラマ

(敬称略)
 西炯子よしながふみは、自分のなかで、立ち位置が似ている。少女漫画の範疇でありながら、それを大きく拡大させるようなヒット作と影響力をもち、両者とも一時期ものすごいハマって読んだ。繰り返して読んだ単行本もある。
 そして、どちらもいまは、ちょっと一歩おいた距離にある。自分がたまたまそういう時期なのだろう。西炯子は新刊を見たら買っていた時期もあったが、おそらくはたくさん書ける人で、その仕事量についていけなくなったようなかんじ。よしながふみは、大奥もなにたべも途中でついて買えなくなってしまった。文字が増えたことと、いつまで続くかわからず、本棚がなくなってきたのもある。大奥はとくに、けっこうがんばったのに、読みきれなくて残念でもある。

 萩尾望都の説明が多い王妃マルゴは大変だった。でも読みきれいたのは、ひとかたまりの文字の量がもう少し少ないし、絵が太く美麗だからだろう。

 西炯子よしながふみも、線が細めで、独特の美しさ、繊細さ、美意識はある。大奥の一巻のインパクトは本当にすごかった。西炯子も何度もその繊細さに感動した。
 でも、萩尾望都のほうが自分には強い牽引力があるようだ。世代とか、半分神様と比べるなよ、と言われそうな気がしないでもないが。なにたべはもうドラマで追うと思う。大奥はいつか電子で読めたらいいな...。


 西炯子のドラマ化の話題で、やはり攻めた話を描いているな〜と思ったし、同時に、いまそれをムロツヨシでドラマにするのは大変そうだなと思った。いまやるには地雷がすごそう、という感じはすごくした。

 アマプラで「沈黙の艦隊」をみると、地上波でやっているドラマと全然違う。出ている人たちは、かつての地上波の売れっ子といっていい、安定した、上手い人たちばかりだ。いまも地上波にもでている人もいる。でも同じ俳優さんとは思えないくらい、ふつうにちゃんとしている。それが驚きだ。そういうふうに、ニーズに応じた芝居のレベルを変えれる人たち、舞台、地上波の普通のドラマ、新しく現れつつあるドラマ、それぞれで、演じ分けができる人たちが、プロなのだろう。

 何食べのドラマは、地上波のドラマにしては稀に見るクオリティの高いお芝居見ることができるレアケースだ。テレ東の夜のドラマという時点で、いわゆる地上波のドラマとはなぜか格が違うとはいえ。いくら主演のふたりがうまくても、脇を固める人たち、ドラマ用の脚本、演出など、総合的に非常に良い仕事なのだろう。先のシーズンでは、ケンジの勤め先のタブチくんと彼女のシーンが、けっこうな尺をとっており、そこがすっごくよくて、これはもうドラマ全体のレベルが高いことの証以外のなにものでもない、とひとりで大袈裟に感動してしまった。

 ムロツヨシが、そういう仕事ができるのか、する人なのか、というと、よくわからない。はじめてしった朝ドラのムロツヨシが大好きなのだが、それ以降ははまるものがない。ある舞台のお仕事について、「再演はちょっと」みたいな発言をみたときに、ひゅうー、とひいてしまったところもある。何回も何回も、というと、方針とかいろいろあるだろうけど、二回目ぐらいでそんなこというの???て、なった。自分にはハマらない作品だったとしたら、他の言い方をしてほしかったな、とか。

 好感度高い人は、下がるばかりだから損よね。。。(かってな消費者心理)

 ちがう俳優さんとか、座組??だったら、ドラマはふつうに作られるかもしれないが、なんだか、ともかくなぞの地雷臭がすごいから、やめるのは賢明だろう。本当にやめるのかな? どうなんだろうな。じっさいはどうでもいいことなんだけど、どうでもいいけどこうだらだらと語りたくなりたくなるものってありますわ。