茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

誠実さとゆらぎ

 矛盾したことだが、二つは共存していていいらしい。
 誠実でありたい。多少の嘘はつくけど、誠実でありたい。ダメなものはダメとすぐにいってしまう。だが境界はあいまいで常にゆらいでいる。
 なにが正しいのか、なにが悪なのか。
 断罪されるべきものは、徹底的に世界から排除されるべきなのか。救済はあるのか、本質的に。


 なんて、なんだかよくわからない。


 自分がすでに社会のシステムに加担している気がするからだ。そしてそこから脱することは、怖くてできない。不可能である。

 

公募に応募した

 三月末が〆切りの賞はいろいろあったはず、そのひとつに応募した。規定枚数ぎりぎり満たすぐらい。今回久しぶり??にゴールまでたどり着いて発見したこと。

  • 自分はかなりアナログ
  • パソコンの推敲は変えて戻している可能性がけっこうある
  • 最初に書いたことが結局キモというか、現実というか、それはそんなに超えられない

 もう人生折り返しだけど、はじめてちゃんと書けた気がした。レベルはもちろん低いけど、自分的に全体を把握しているというか。

 で次は、次のめぼしい??近い賞は枚数が300枚以上からとか。絶対無理ゲーだけど、どうしたら書けるか。まずはこんなブログを書いている場合ではないような気もするが、これは要するに小説とはぜんぜん違っていたのさ。それだけのことさ。
 書くときに、文章として正しいとかそんなことを考えているとだめらしいことはわかってきた。説明もだめだ。ちゃんと書こうとか思ってるとだめだ。意識せずに書けないと、だめっぽい。自分の場合は。走る人が走るときに筋肉をどう動かして〜〜とかいちいち意識しないのと同じかも。基礎トレは読書だろうな。ツイッターばかり読んでる場合ではない。
 有名な作家さんが、推敲をほとんどしないモーツァルトみたいな書き方をするひとがいるらしいが、それはある意味あっている。最初にぱきっとかいたことがつながってないと逆につじつまがあわない人なんだろう。もちろん普通ではない。
 covid-19で読書がオススメされているけど、書くともっと時間が経つのが早いですよ。能動的になるし。みんな読んだら書けばいい。世界のことを忘れられるぞ。

いっすんさきはまっしろ

 23日にワニについてなんか書いているけど、そんなのかいているばあいじゃねえ!な未来になっている。
 すごいわ…一寸先はまっしろけ。なにがなんだがみえない。
 闇と思わないのは、まあ、そんなことをいってもしょうがないからだ。闇なら何もしないで寝るしかない。
 ならば、身辺整理をしておくべきか。タンスの引き出しのなかを整理整頓しておくべきではなかろうか。いつでも入院にぱんつもっていけるように。ぱじゃまもかわなきゃ。そんなひまないかしら。いやそもそも、そのときには病床がないかもいしれないよ。
 もう知らぬ間に感染してれば、抗体ができていればいいのにな、なんて乱暴なことを考える。そんなに都合よくはなかろうよ。

 ウイルスが出現する意味なんてないだろうけど、出現されたほうとしては、けっこう世界が変わってしまう。いままで当然だったものが当然ではなくなる、ものの価値が変わる。
 なにかうちにあるもの、自分がもっている能力??で、金になるもんないかなー、と思ったけど、いまのところ発見できてません。

ワニ、ありますか

 すごく品がないえんとり。



 ワニの話が盛り上がっている。最終回の2、3日前ぐらいに知って、アカウントをみにいったらミュートしていて、なぜそのひとをミュートしていたのか思い出せないけど、せっかくなのでブロックしておいた。ミュートをしていた可能性は複数ある。

  • ワニの連載がはじまったころにリツイートされてきたのでミュートした
  • ワニの前からなにかあってミュートした
  • しらんけど手がすべってミュートした

 どっかの日をみて、カウントダウンをみて、「悪趣味」だし「で?」となった。「で?」「で?」「なにがいいたいの?」カウントダウンで読者をひっぱるの楽しい??、といじわるなワタシが言っていた。かもしれない。
 とにかく、ぜんぜん愛着がもてない絵柄とか話で、徹頭徹尾、not for me だったのだろう。これのなにがかわいいの? である。
 死ぬまであと何日? 次の瞬間? 明日?
 よしあしではなく、not for meである。
 100日前といま現在では、一般的な日本における日常生活での、死に対する距離はずいぶんかわってるはずである。それが作者たちの誤算なのか、なんなのか。
 もしウィルスが蔓延してなかったら、ワニに対する感想や、その後のハイパー燃えまくり商法に対する反応もかわっていたかもしれない。燃えなかったかもしれない。
 だが作品の良さゆえか、ウィルス故か、死が肌感覚的にリアルになってしまっていたから、熱心な読者は「喪の仕事」を必要とする状態だったのに、テレビ出演とかグッズとかメジャーミュージシャンとのコラボとか立て続けに打ち出してきた。請われてお葬式しますぐらいのタイミングで、日常をきりとったくらいのささやかなグッズや、死を悼む歌が作られたら、そりゃしみじみとすがすがしく執り行われ、のちのち明るいグッズに続いたかもしれない。
 かもしれない。
 取らぬ狸の皮算用
 しょうがないので狸の皮に思いをはせる。なんの足しにもならない。
 読者でもなんでもなかったくせにこんなものをかく輩だ。でも誘惑にかられるなにかがある。その点で、100ワニ現象は、いんたーねっとという居酒屋で一言しゃべりたくなる作品になってしまったことは変わりない。すごいじゃん。

消えた三拍子

 20年ぶりぐらいに楽器をさわりはじめて2ターンめだが、どうも三拍子が縁遠い。どこで三拍子を把握していたんだ、むかしの自分。シンコペーションもどっかに消えてる。ほとんどクラシックも聴いていなかったから、まあ仕方ないか。聞いてたらわかるのかってぇと、それも疑わしい。バナナバナナバナナと唱えていると黄色い奴らが頭に湧いてきて踊り出すし。いやーむずかしい。