茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

投資や株の勉強

 投資や株の勉強にと本を探したが、本当にそんな本が役にたつの?、という雰囲気の本ばかりがでてくる。

  • 初心者向け
  • 世界の大富豪の本


 しょせん投資だ。そう簡単に他人にうまい話をさらすわけがない。ということだろうか。いやいや、単に自分の知識がおいついていなくて、中間がわからないのだ。

  • 初心者向け
  • (わからない何か)
  • 世界の大富豪の本


 その可能性はでかい。初心者向けの、同じようなレベルのを3冊ぐらい読みたいのだけど、3冊探すのが難しい。同じ本を集中的にくり返すのが苦手なので、同じぐらいのことを3冊ぐらいからだいたい同じようなちょっと違う説明をしていてほしい。それがみつからない。


 つくづく思うのだけど、金融とかお金の話は、高校生ぐらいからやっておいてほしい。税金の話はぜったい中学から。じゃないと頭がすっからかんの中年が量産され続けるばかりだぞ。ちくしょー。

ある小説を読んでいたらある映画のネタバレがあった。

 ある小説を読んでいたら、あるわりと有名な映画のネタバレがあった。


 ぐああああんんん


 と鈍い衝撃を受けた。その映画は有名な監督の作品で、まあまあ有名で評価もまあまあ高いので、いつかは観ようと思っていた。ちょっとヘビーなテーマだから、気力が充実しているときに観たいと思っていた。のんきに本を読んでいたら、ネタバレがするっとでてきた。登場人物が、その映画を観てこうこういうところがホニャラカだった、みたいなかんじでトゥルっと書いていた。


 小説には、実際の固有名詞をだすものと、ださないものがある。音楽とか、小説とか、映画とか、地名とか。小説をきっかけに、その音楽を聴いたり、読んだり、観たり、足を運んだり。小説を読んで、という動機の出会いは、ちょっとなんだかかっこいいし、ステキなイメージがある。主人公が好きだったり、逆にけなしていたり、ただそこが舞台だったり、なんでもいいのだけど、小説における実在する固有名詞のパワーは小さくない。
 だがその小説には、映画のかなり肝心なネタバレがすぱーんとつるっと書いてあった。そんなことはじめてさ。


 もしミステリィ小説などで、ストーリーを進める上でどうしても重要な要素なら、「〜〜に関する記述があります」とか、最初に断り書きがあるかもしれない。ありそうだ。
 だが、「純文学」でそういう断り書きはなさそうだ。だって「純文学」だもの。そんなのがある「純文学」ってなくない? ダサくない? いや、ちくしょう、「純文学」ってなんだ。なんだよ。なんなんだおまえ。


 その小説は、「文体は好きだけど話はおもしろくないなー」という状態で読みすすめていたのだが、映画のネタバレがでてきて「他人には勧められない」本にはなった。けなすかどうかは、まだ最後まで読んでいないから、たぶん、いまさらけなしはしないけど。


 自分の純文学のもっとも現代的なイメージは、北杜夫遠藤周作だ。古すぎる。古いとは思う。でも現代の作家は、やっぱり基本ダメかも知れない。という認識を新たにした。



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2017年1月第3週の株の素人。

追記:終了ぎりぎりで売り切る。はじめての利益もでたけどトータルではまだ損してる


 火曜日の朝で某株を指値で買ってみた。これは発注時に上下あるいっていの金額で動いたら、自動的に売り買いする注文もしている。しかしほとんど動きはない。(数字になれていないので動きがないということを認識するのも実は手間)
 先週から引き続きもっている某株は、買ったときより安い。コンマ以下なので金額としては小さいが。前回のうっかりミスでいくらか損をしているので、スタバでお茶する何回分をもう損している。あがんないかなぁ。


 そもそも一週間とか短期であれこれをねらっているわけではなく、売り買いやシステムになれることが目的なのだよ。しかしすぐ損したなぁとか儲かるのかなぁ、とかそういうことばかりを考える。


 余剰資金がなければ株はやるなというけれど、若いうちから、それこそ学生ぐらいから、株になれることを目標に数万円からやってみたらいいのにな、とかは思う。おばさんになってからではいろいろ頭がおっつかない。学生は口座つくれるのかな? 二十歳過ぎてたら創れそうじゃない?


 それにしてもそもそもいろいろしらなさすぎて、一度本を読んだくらいでは「これこんなのみた記憶すらない」である。ツライ。


 日本時間の今日の深夜でトランプさんが大統領になっちゃうらしいので、とりあえず株は売ってしまいたい。

娯楽や文化にお金を払おう。

 娯楽や文化にお金を払おう。無料だと思っているものは、どこかで誰かがかわりにお金を払っていて、巡り巡って実は君もお金を払っている。わかりにくい形だけれど、世の中にタダで楽しめるものなんて、無いのだ。

 せっかくお金をだすなら、感動をくれるその人、その会社そのものに、直接、ちゃんと妥当な支払いをしよう。もし可能なら、感動した気持ちも添えて。そうしたらその人たちも感動して、がんばって、君を楽しませたり、勇気づけるものをまたつくってくれるから。

 著作権がきれた小説などはタダで読めたりするけれど、それらをちゃんと整理整頓して、いつでも誰でも読める状態にしておくには、お金がかかる。ネットの情報だって、どこかの機械のなかにあるんだよ。機械は置く場所、土地代、電気代がいるんだよ。美術館や博物館、伝統的な文化を保護して存在させるのは、もっともっと繊細な技術や知識やお金もかかるのだ。

 っていう教育を、くりかえしくりかえし、義務教育でしてほしい。

隣の芝生は青くて苦い

どのようなファンのなかにも、内輪でしかわからない用語やネタはある。何が面白いのかわからないことを延々と繰り返したり、笑い転げたり、感動したり感謝の意を五体投地で示そうとする。外部から見れば、何をやっているかわかったとしても、何が楽しいのかさっぱりわからないことは多い。好きでない限り、たとえ好きでも、必要と思わないなら知る必要はないし、知らないことで困ることはない。ましてや蔑んだり憎むことはない。その集団からなんらかの被害を受けたりしない限り。そういう場合は多少仕方がない。愚痴や文句もでてしまう。それでも実はその対象は悪くはないのだが、怒りの矛先はシンボリックなものへ向かう。

 

特に被害も受けないのに、なぜかぽろりと差別的発言がこぼれるときがある。ファンの内輪受けがひどくくだらなく寒々しいものにみえ、その感覚を言葉にして放ってしまう。実は外は何も変わっていなくて、自分が変わっただけなのだが。

 

自分が変わった故にそれまで魅力的にみえていたものが陳腐化したり、別に気にしていなかったことにケチをつけることは、多々ある。変わりゆく戸惑いやストレスか、優越感故か。

 

少年少女が大人になる途中で言動が変わるのは微笑ましいが、大人になったあとではそればかりではない。好きでなくなる、何故かケチをつけたくなる。それは対象やそのファンが変わったのではなく、たいてい自分が変わっている。

 

この種のトラブルや諍いは珍しくない。大人だって変化するタイミングがいろいろあるからだ。大きなものは結婚と子育てだ。後者は不可逆的で、いちど子どもをもってしまうと、もっていなかった間がたとえ40年近くあっても、もう元には戻れない。たくさんのことと引き換えにして子育ては行われる。若さを除いてほとんどはいつか時間がたてば戻ってくる。だが子どもがいない状態には、子育てを終えても戻ることはない。

 

子どもを持たない人は子どもがいる人の気持ちはわからない、となんとなくわかってる。子どもがいる人は、かつてはいなかったのだから、いないということも知っているはずだ。だがそれは思い込みだ。状況を思い出すことができても、その頃の考え方やふるまいなどはもう二度とできないのだ。特に子育て真っ最中という人は、あらゆることが子育てに優先した思考になっているから、ギャップは大きい。

 

埋めがたい差がある。持つものと持たざるもの、得たものと失ったものか。得ていないものを喪失というの変だが、子を持つ人は大きな喪失と引き換えに子どもを得ているのかもしれない。喪失は他のものでは埋められない。いびつな形になったところに、新たに出会ったものをひきよせてまた別の新しい形を作る。