茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

「年齢拒否」はなにがそこまでダメなのか

ツイッターで「年齢拒否」という言葉がバズっていた。ひらたくいえば、同じファンでも30代や40代のおばさんはいやだ、ということである。地雷を踏み抜いたのは、いい年でそんなものにはまっている人は嫌だ、というような文言がはいっていたせいだ。

 

「同年代のファンと知り合いたい」とだけ書いておけば何も起こらなかったのだが、そのとき心の暗部にあったどす黒いものを、うっかり表明してしまったのだろう。SNSウオッチャーは未成年のそういう漏れた暗部を見逃さずに吊るし上げる。体罰する悪質な教師と似た心理だ。

 

自分が年をとったときのことを考えないのかしら、というツイートをちらちらみかけた。それも酷な話だ。先のことをみんないつも想像したり計画してるわけじゃない。好きなものをずっと好きでいるつもりはないのかな?、というツイートもあった。それは半分は真実だ。若い時に一過性のものとしてそのときの私が好きになるから、おばさんはそこに表れて欲しくないのだ。ほかの半分は、同時にずっと好きで10年たってしまった…という可能性。それはそれで修羅の道。

 

年齢に関わらず、自分より年上の世代がとてつもなく醜悪で気持ち悪くみえることはある。ずっとある。二十歳はアラサーアラフォーが怖くて気持ち悪く、アラサーはアラフィフやアラ還がそうで、アラフォーになればアラ還、70代以上が謎すぎて、アラフィフになれば……と、はてしなく。たぶん80歳前後の人は、百歳前後の人が苦手なのだ。知らんけど。

 

未来の自分の姿がそこにあるからだ。規範となるものばかりならいいが、たいていはだらしなくかっこよくないものが目に入る。いちどそういう視点が癖になると、未来がある限りその感覚はなくなることはない。ああはなるまいと思うほど、そこにすっぽりはまっていく。嫌い、恐怖、意識する、逆にそこに近づく。

 

世の中の年代に応じたイメージはだいぶいいかげんになってきたが、個人のなかには漠然と描くものはある。良き理想ならそこへ近づく動機になるし、悪い理想?はそこにとらわれまいと排除して差別的な発言にもつながることもある。気にしないのがいちばんだ。難しいけど。そんなひともいるんだな、ぐらいで。

 

思春期って(何歳まで?)嫌なものをイヤイヤいいたくなる時期だ。それをSNSに書いてしまうと、あっという間に社会的に攻撃される。だからどんなに嫌で嫌でたまらないことがあっても、ぐっと我慢して、アナログなノートに書き付けよう。時間がたてばシュレッターにいれることも忘れずに。もっと時間がたてば笑い話や反省材料になるだろう。

 

嫌なことを認識するなというわけではない。自分が好きなもの、嫌なものを理解しておくのは、他者が価値観などがぶつかったときに役にたつ。そこで自分の基準がおかしいと感じたら変えていくし、いややはりこれは大切なことだと思うなら残していく。何歳になっても、何歳になっても、その衝突と再構築はひとそれぞれの規模で続いていく。何歳になっても、だ。大変で面倒くさいことではあるけれど、それをまったくしなくていい境地になるには、あらゆる煩悩を捨てるか、完全に他人のいいなりになるかである。年齢で拒否、なんて言ってると、後者になってしまうよ。

 

 

当事者にはなれないけども

 だいぶむかしに読んだかなり短い短編小説集のなかに、当事者の話があった。短編なので何の当事者かははっきりと説明されていない。その当事者の近くにいる者と当事者のことが、簡潔に記述されていたと思う。


 ある我が家にふりかかった大きな出来事のときに、私は当事者になったのだけど、本当に悪銭苦闘して問題に対処していたのは、自分の保護者たちであって、自分は当事者であり当事者ではなかった。


 重い病気とか、難しい病気とか、金銭や人間関係のトラブルや、子どもがいるとか、いないとか、いろんな当事者に誰もがなっている。「〜〜じゃなきゃわからない」という人は、相手を拒絶しているか、甘えている。いわれたほうは、つきあいをつづけるか、どうつきあうか、それはそれぞれ別の当事者である自分で決めればいい。だめなときはとりあえずサスペンド


 当事者でなければ分からない問題、不便なことを表明する意味は大きい。言わなくて我慢した人は、他の当事者の話も聞けなくなる。いいあらわせば、もしかして解決するかもしれないし(本人に問題がある場合でも)、解決しないかもしれないけれど。誰かひとり、ふたりの身近な人に話しても愚痴でおわって塵芥になってしまうので、インターネットの大海に投げるのがいい。


 いろんな当事者が発生したら、当事者の意味も変わってくるかもしれない。あなたはあなた、わたしはわたし。そんなふうな区別が曖昧になる時代もくるかもしれない。

おばちゃんの知ってる香港映画

(ここでの香港映画とはジャッキー・チェンの「〜〜拳」とかああいうかんじのやつです雰囲気ですイメージです)


 ツイッターでフォローしているお若い方が、ローグ・ワンを観てからドニー・イェンにどはまりしている、ツイートをみていると、どうも中華系アクション武術映画にさほど免疫がないようだ。そういえばわてらの子どものころは、ジャッキー・チェンに代表される香港映画は基本であり常識だった。ジャッキー・チェンも時代とともに現代的な映画が増えるが、むかしはファンタジーみたいな世界設定の映画が多かった。いやいや、たぶん基本は中国の歴史上の架空の物語だったはずだ。こどもだったのでよくわかっていなかったのだ。


 ドニー・イェンはなんとなく知っていたが初めて顔と名前と映画が一致した。ああ、あのひと、あの映画のひと。ファンからすればナニヲイマサラだとは思うが、ジャッキー・チェンの頃の「ふつうにみんなしってる」に比べたら、その差は大きい。ローグ・ワンでみたときは、おお久しぶりにこういうのみた、という驚きと同時に、やはり進化して洗練されているなあという感動もあった。


 超人的アクションというのは、加減が難しい。あまりすごすぎると、どんなスキルもそうだけど、一般市民はついていけなくなる。ローグ・ワンは、彼の超人的すぎるアクションを、演技の一部としてみせることにとても成功しているのではないのだろうか。だからいままで同じ人がでている映画でも、以前はふ〜んすごいねでスルーしていたのが、ドカーーーーンン!!、と雷に撃たれるようにファンが生まれるのである。若いとなおさら。かつての香港映画のイメージがないならなおさら、ローグ・ワンのチアルートは衝撃的だっただろう(他にもあれこれ激震させる要因はあるが)。


 映画は出会いだ。古いものも新しいものも。どこでどんな出会いをして、どんな雷に打たれるかわからない。



 これはやくHuluで観なきゃ。香港映画ではないが。

ヨシヒコの最終回

 ヨシヒコの最終回をみた。さんざんいろんな前ふりをしていたけどどうなるのかなと思っていたら、思いのほか豪華でハッピーなエンディングだった。こういうのがファンにうけたかはわからないけど、私はとても好きだった。


 3つの扉を開けるくだり。天使かわいい。エヴァは王道。ゲームする電車男のようなヨシヒコとホトケのやりとりが、ぞくっときた。ふたりとも本当にうまい役者さんなのだな。自分がラスボスを倒していない、途中でやめてるゲームがたくさんあるタイプなので、ドキドキした。


 剣をとりかえにいくシーンもよかった。安心してみていられるエンタメドラマ。ありがたい。ドラクエの記念特番をみたあとだったので、ヨシヒコは本当に好きなドラマなんだなといまさらわかった。


逆指値してみた

 B社の株。異常に下がったときにすごい損失をださないために、練習をかねて逆指値の発注?をしておいた。600円で買った500円を下回ったら即座に売る、みたいな感じ。500円が400円になってから売るよりも、損失は少ない。
 今朝それが実行されて、めでたくほにゃらか円の損。しかし株価はまたすぐに上がっていた。


 うーん。

  • 期間を決める 週間
  • 損してもいい割合をきめる 5%


 現時点のルールに従えば、あっているようないないような。今日の相場はこれからだし、まだ明日金曜日もある。だから週末の時点で5%を下回っていたら…いやいや、週のとちゅうで5%下がってそのまま10%下がったら…?


 うーん。


 いまは売買とかシステム操作になれたいので、そういう次元の話だから、深入りしなくていいのかもしれない。そもそも株というのは、自分がいい会社だと思ったところを応援するものだと、思っている。いま買っているのは、単純に予算で帰る見るからに危なくはない会社の株を買っているだけである。


 千里の道もいっぽから。