のこのこ茶ぶろぐ

chaoruko@HatenaBlog

かぎ針編みは英語がわかりやすい

(なんども同じ話を書いている気がする)


 かぎ針編み crochet に関する手引きは、英語が圧倒的に情報が豊富で、かつ、親切で、優しい。
 すべての編み方を個別に親切に説明したサイトがうなるほどあるし(玉石混淆ではあるが)、フリーの編み図もたくさんある。
 英語の場合の、かぎ針編みのフリーの編み方は、だいたい以下のような構成になっている。

  • いるもの(糸、かぎ針、はさみとか)、いる量
  • 編み方の略号(一般的なもの)
  • 編み方 instructionのなかでの、独自の略号
  • 編み方 instruction

 編み図はないのが基本だが、無くていいからないのである。

「わかりやすい」という根拠は、略号、独自の略号が、先に説明されている点。簡単にいえば、大前提として知っているべきことが、少なくて良い。変わった編み方とかは、そこで独自の略号として説明してくれている。
 編み図がないくて、編み方のみ、ということは、編み図を解読する努力がいらない。編み図がある故に、説明がおざなりになっているのだ、日本の説明は。写真をみたほうがはやいとか、そうとはかぎらないのデス。
 あと、やはり、英語圏の模様のほうが、なぜか編んでいるとき楽しい。日本のは、なんか楽しくない。よくわからんけど。
 そもそも向こうのものなのだから、あちらのほうがいいに決まってるじゃん、ですが。


 たいした英語はないので、1つ無理矢理でも編んでしまえば、なんとなく身につく。
 そしてあちらはいろいろそれぞれやり方があるので、「これはこうしなきゃいけません」のストレスが少ない。共通の部分が少なくて、国ごと、人によって、違う。日本の編み図を堂々とちょっぱってるところもところによってはあるので、それはそれでおもしろい。
 日本の編み図はたぶん、クールジャパン的な、カワイイ、があると思われる。


 しばらくやってなくて久しぶりに検索したら、お世話になっていたサイトとかがでてこなくなって、かわりにクソなハウツーサイトが上位にでてきてイライラしている。むつかしいねえ。

『グッド・オーメンズ』とりあえず最後まで観た感想

 とりあえず、吹替版を最後まで観た。まさに「とりあえず」である。第6話はとくに、理解が追いつかないことが多くて、まだ、頭が混乱している。


 以下の文章は多少それなりにネタバレが含まれます。


 基本はコメディなので、どれくらい真面目に感想をのべるべきか、迷うところではあるが。
 物語としては、じぶんはとても、ストレートにいえば、胸がいっぱいになって感動した。なんども、少年少女たちの表情やことばにきゅんきゅんガツンときた。そしてその他の人間の皆さんの、ともかくも、愛情豊かなことに、なんども心うたれた。
 グッド・オーメンズは、愛にあふれた作品だ。ざっくりいえば、4組の愛と友情が描かれている。友情がもっとも尊いのは言うまでもないが、こころがよごれちまった中年としては、少年少女にも、若い人にも、じいさんばあさんの愛情にも、むせびないてしまう。う、中年はいずこ、いずこに…!!


 中年の星は、主人公たちですね。


 いろいろ楽しいオカルトの話をこれでもかとちりばめ、詰め込み、これはもうムー民案件でしょわくわくどきどき!、という点でも楽しめるし、そういったものに対する、心構えもざっくりふんわり説かれている。真に受けたいお年頃もあるし、そういうものに支配されてばかりも疲れるし、同時に、そういったオカルトがヒントをくれる、導きになることもある。
 天使と悪魔は、本筋にからんでいるのか、いないのか、はっきりしないところも、ものすごくうまい。独特なストーリーの綯い方というか、からめ方というか。彼らはナニーと庭師になって干渉しようとしたけど、結局失敗しているし、なかなか本物には出会えない。ふわふわと天使と悪魔の対決もあって、ふわふわと右往左往している。
 人間たちは、オカルト的なものに翻弄されているのか、いないのか、そういうものにのっかって楽しんでいるのか、なんだかな?、である。よくみえれば、魔女はかなり魔女で、彼女を主人公に物語がつくられてもぜんぜん面白いのに、天使と悪魔を主人公にしちゃっているのが、エンタメなのに(だからこそ)贅沢で奥深い。


 とても人気がでているのは、天使と悪魔のつかづはなれずの関係性や、それぞれキャラクターの魅力は大きいとは思うが、一応メインのストーリーがやっぱり面白いからだと思う。天使と悪魔は傍観者であり、人間の物語だ。そこがちゃんと描かれているから、天使と悪魔が魅力的に描けるのだ。不可思議な一筋縄ではいかない人間たちがいなければ、彼らも存在しない。彼らはほんらいは違う時間の尺度や能力、倫理観で生きていているはずなのだから。


 いやいやいや、とはいえ。
 とはいえですよ。
 なぜここまで、アジラフェルとクロウリーの2人の関係は、ワールドワイドでファンガール&ボーイたちを興奮させるのか? もう話の筋など忘れた如く、天使と悪魔のファンアートが、ファンフィクが飛び交っている。おかげでネタバレがほとんどでないというありがたい状況ではありますが。


 まあ、話としては阻止するエンドは歴史的ネタバレではある。だから「どう」それを乗り越えたかがスリリングでロマンチックで、ほろりとさせるところもあるのだ。
 少年少女たちが、まったくもって、弱った中年の心にささりまくり…!!


 いちどとりあえず観ただけでは、ネタかジョークか、わからないところも多く、これから徐々に理解していきたい。それで字幕版をちょっと観ようと思ったら、しょっぱな「クロウリー」とかいってるけど、これじゃあ改名するところはどうなるの?である。変なフォントだし。吹替が最高の最高の最高すぎたのに、字幕がフォントから躓いているところがせつない。日本語なめられてるなあ、なんておもっちゃうぞ! だからとうぶん吹替だぞヒャホーイ!!

DAZNでボクシングの中継をだらだら見た

 F1目当てでDAZNに入っているが、めずらしく家人がみるというので、ボクシングを流す。
 場所はカリフォルニア?、会場は屋外である。夕方にはなっていないくらいだが、真昼でもない。青空がすっきり。この陽射しは、選手たちには大丈夫なのか?と思ったが、ボクシングはくるくる向きがかわるので、いいのかもしれない。お客さんは最初は少ない。リングの周りにはわりといるけど。斜面の席はどうなるのかとみていたら、次第に増えていく。
 最初の試合はKOで、あっという間に終わった。あとは、それなりに。
 明るい屋外のボクシングは、とてもふつうのスポーツに見える。選手の体が、筋肉より若さが目立つ。お肌ぴちぴち。序盤の試合の選手はとくに若いのかもしれない。規模の大きい試合ではないのか、あまりショーアップされていない。いちおう女の人もいるけど、動きも表情もきびきびしていて、スポーツだな、って感じ。
 明るい光のせいか、全体がよく見える気がする。決まるほどパンチは、速くて一瞬でなんもわからん。ときどきリプライがある。全体的にローコストかなイベントや中継かな思いきや、アングルとか結構しっかりしている。実況はあまりしゃべらなくて、英語だからわからないけど、ラウンドの合間に、ばばばば〜としゃべりまくってる。なるほど合理的。
 だんだん陽が傾いてくると、陽射しがきつくなり、お客さんたちがみんな手で目元を覆っているのが、ボクシングの試合ぽくなくて、妙におかしい。
 亀田和毅選手がでてきたら、日本人が増えたのか、やたらにぎやかに聞こえる。何をいっているかわかるせいもある。奥さんが美人。
 試合はなんだかすっきりしないような、そこまで悪くもなかったと思うけど、お客さんはわかりやすくぶーぶーと紳士的なブーイング。何がそこまでだめなのかはわからないけど、面白い試合ではないことはなんとなくわかる。


 試合後のインタビュー、亀田選手のあいてはメキシコ人で、スペイン語から英語の通訳のおじさんがいた。そして亀田選手のインタビューも、そのおっちゃんがすたんばってる。え、どゆこと?、と思ったら、亀田選手はスペイン語をしゃべっていた。

勝間和代さんがでてくるとイラッとする理由を個人的に軽く考える

 勝間和代さんというのは、猪突猛進ブルドーザーだ、とどこかに書いていた。いまとなると、これは他の人へのたとえを借りたものだったようだが、長くそういうイメージの人だった。メディア的な浮き沈みはあれど、だいたい概ねぱわふるに生きている人のようである。
 最近は、はてなブックマークでよくお見かけする。ホッテントリ入りする。微妙に長いタイトルを見かけると、なぜか毎回「イラっ」とする。そのタイトルが「イラっ」とするのか、勝間和代という名前だけでいちいちイラッとしているのか、よくわからない。
 かつて著作も購入して読んだことがある。何かと話題になるひとなので、一度はちゃんと本を買って読もうと思って、そうしたのだ。面白くてためになる感じがした。頭がよくなった気がした。お利口になった気がした。
 ぜんぶそんな「気がした」だけだった。
 そもそも、ふつーのITヒエラルヒーの末端サラリーマンには、必要のないものだったのだ。それだけのことだ。読んでも役に立たないとかどうかよくわからないけど、そうだったのかもしれない。つまらなかったとか、金を返せとは思っていない。
 だが、その後、だんだん興味をうしない、ご本人の露出も変化があり、いまに至る。
 強そうなライフハックな記事が、はてブでは流行るようだが、いまはもう記事はみにいかない。でも以前よりは、なんだか楽しそうで幸せそうな感じがする。
 世の中にはいろんな頭の良さがある。この人は嫌いだという感情を起点に他人の頭の良さを理解できないことは多々あるが、勝間和代さんの場合は、好き嫌いとかよくわかんねえし、頭の良さもわからない。
 そりゃあ、あんた、ぜんぶがわかるわけがないでしょう。
 でもときどき、なぜか自分は「イラッ」とする。強そうで元気そうで自信があるかんじが、いやなんだろうか? 気にさわるんだろうか? 小さく、ありふれた話だ。

バイオリンのかっこいい曲

 バイオリンのかっこいい曲といえば、「バッハの無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」なかでも通称「シャコンヌ」である。なんそれ?方でも、日本にすんでいれば、テレビとラジオとかふつうにメディアに接していれば、ぜんぜん聴いたことはないですごすのは無理だと思う。ベートーベンの運命ほどメジャーではないが、いろんなところでつかわれている。

 舌を噛みそうな呪文のようなタイトルだが、重要なのは、以下の2点。

  • 作曲者がバッハ
  • 伴奏がない、ソロ

 バイオリンの曲はさまざまあるが、実は「伴奏がない」のは少ない。だから無伴奏は貴重だ。

 この曲らの、内訳は、以下のようなことになる

 なんでそんな順番なのか? ソナタの1〜3番、パルティータの1〜3番ではイカンのか?
 そもそもところで「ソナタ」とか「パルティータ」とか、なんなの?
 ほんとうに全部で6曲なの? 

 6曲ではそれはそうなのだが、厳密にはそうではない。それぞれ4曲から7曲ぐらいに、わかれているので、もしぜんぶを通しで聴いたとしたら、「いったい何曲あるんじゃあ??」の長さであり、たいていは、CD2枚組である。
シャコンヌ」という、なんだか美味しそうな優雅な響きをもつ曲は、このぜんたいのなかのどっかにあって、知名度は1番か2番だ。ネットで「bach solo violin chaconne」とかぐぐれば聴けますが、それが違法にアップロードされたものかどうかなんて、わかりません。


 これらの曲は、めちゃくちゃかっこいいけど、弾くのは基本的には難しい。音の数が少ない曲もあるが、概ね解読がしんどい濃さだ。その難しさは独特だ。
 バイオリンがひとりで弾いているのに、これ何人で弾いているの?、とお尋ねしたくなるような曲だからだ。バイオリンは4本の弦がはってあって、本当に同時にだせる音は二音まである。それなのに、音がいっぱい、弾き手がいっぱいあるように聞こえるのだ。ふしぎデスねー。難しくて魅力的、プロになれば避けては通れなくて(たぶん)、人気があるから録音CDも種類が多い。Apple Musicとかにもある。


 バッハの奥深い難易度の高い曲だけど、Amazonで普通に楽譜は買える。初級者だって手にとることは自由なのデス。そして、バッハの楽しいところは、えらいところは、「弾けなくても楽しいの」こと。初級者は一音ずつでも、音を出すだけで大変で、とうてい奥深さとはほど遠い、音をだして遊ぶだけになってしまう。それだけでも、とても楽しい。CDなどの音源で聴いていただけのあの「じゃじゃーん」とかな和音(もどき)を自分でだすだけでも、すごく楽しい。バッハの楽しさ、音楽の楽しさを体験させてくれる。こういう「弾けないけど楽しい」と思う作曲家は、バッハやモーツァルトが多いかなと個人的な印象。


 ところで無伴奏といえば、「バッハの無伴奏チェロ組曲」も有名。こちらは名前がシンプルなのは何故なのか。こちらも6番まである。このなかにもいろんなところで使われていて、有名な曲がある。
 バッハの曲は、現代生活での遭遇率はかなり高い。


クロウリーとりんご

 グッド・オーメンズで囓りたい聖書や歴史。

 Amazonプライム限定で絶賛配信中のドラマ『グッド・オーメンズ』をみはじめてから、聖書ネタや世界史ネタでそわそわしている。正確には、彼らの六千年の歩みのほうで、それは本編とはそんなにあれだったりするわけだが、ドラマが大変楽しくきっちり?と各時代を描いているので、これはあれだよねそれだよねとか、うろ覚えな知識を確認したり補強したくなる。広く浅くすぐ忘れる定めだとしても。
 幼稚園がカトリックだった、高校はいちおう世界史選択だった、程度の知識で、作品にかこつけてキリスト教や世界史を調べて、へへーほうほうほうウフフフとか書くだけの企画である。続くかどうかはわからない。
 引用する聖書はすべて新共同訳。たまたま家にあった。いつ購入したとかわからない。


 エデンの園やりんごのエピソードは、聖書のどあたま、『創世記』のなかでも、3ページめ、かなり最初のほうにある。聖書は辞書みたいに薄くぺらぺらの用紙なので、丁寧にめくらないと行き過ぎてしまう。
 
エデンの園にある木からはなんでもとって食べていいけど、『善悪の知識の木』からだけはダメだよ」
なんて、最初からあやしい、言われたほうは気にするしかない、モヤモヤするしかない条件の掟が設定される。蛇がはそこをつついてくる。ちなみに蛇は「主なる神が作られた野の生き物のうちで、もっとも賢い(創世記 3.1)」だって。嫌われているのか、愛されているの、どっちなの。

...部分は筆者が略

創世記 3 蛇の誘惑
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」
 女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない…と、神様はおっしゃいました」
 蛇は女にいった。
「...それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」

 ぜひ蛇の声は、吹替のなかのひとの声で脳内再生してください。

「なんでもOK、ただし唯一NGをのぞいて」と言われても、だ。
 そもそも「なんでもOK」という状態はかなり発生しないにも関わらず、そういう夢のような状況を設定しつつ、「でもこれをやぶると、ぜんぶおしゃかになっちゃうんだよね〜〜」という条件もつけておく。押すなよ押すなよといいつつ背中を押されて落ちるやつを、話として用意して、落ちている。

(わずかな時間と場所に限れば、自由にやりたい放題だよ!、な瞬間はひとにも現実にあるかもしれないが、実際は制限がないわけではない、というような話だろうか。飲み放題だよ食べ放題だよ、ただし飲み過ぎたら、食べ過ぎたら後で苦しむよ!、とか?? 抽象的に書かれていると、好きなように解釈するので、解釈違いでケンカしてややこしいのである)

 蛇は直接的に食べろとは言っていない。なるほど、これはたしかに誘惑だ。いわばツイッターにありがちな、拡大自己都合解釈して、かってに自分を納得させて食べるのである。
 だが誘惑された人をひきつけるものは、おいしそうにみえることだけではない。

創世記 3.6
...その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

「賢くなるように唆(そそのか)す」ってなんだ!! 人間は賢くなってはいかんのか? ここでいう賢さとはなんなのか。女も男も、ふたりとも、けっきょく賢くなったのか、愚かになったのか。


 ドラマでの蛇(吹替版)は、わりと積極的に、「食え」とそそのかしている。クロウリーさんはわりとダイレクトに誘惑するんですかね? 
「悪魔の誘惑」といえば、極悪非道な陰謀を人の心に生じさせている雰囲気だが、「クロウリーの誘惑」というと、どうもそんな感じがしない。わたしの心はすっかり天使と悪魔で半分半分。人間だ。


 ところでエデンの園の中央には「命の木」ってのもでてくるんですが、その後これは聖書で登場するんでしょうか、いったいなんなんでしょうか(中二病




うちにあるのはこれに近いらしいNI44(2800円)だいぶむかし。

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「チケット転売」のおもひで

 むかしの、2001年か2002年ぐらいの話。(もう何度かwebのどこかで書いている話)


 いろんなアーティストが出演する、なかなか豪華なイベントのライブのチケットが手元にあった。それはスペシャルイベントで、チケットがすべて無料だった。ペアチケットだった。(妙なところで宝くじ運をつかっていやがる。)
 同行者がいなくて、現地でみつけよう、と見切り発車した。「チケットさがしてます」という人のうち、自分と性別が同じで、年齢がなるべくちかい、怖くなさそうな人をさがした。(やはりA4サイズぐらいの用紙にしっかりと書いてあるほうが、話しかけやすい。かつ、あまりせっぱつまった顔をしていないほうがいい。来ればラッキーぐらいの雰囲気がよろしい。私の場合は。)それらしい人をみつけても、あまりじろじろと観察はできないので、ジャッジは一瞬。あとはまさに突撃である。


 声をかけたのは、若い女性ふたり。1人はすでにチケットを確保していて、もう1人分を探していた。席が近かったりしたら、自分のチケットを二枚と交換してもよかった。だが、そちらのチケットのほうが、いちおうステージには近そうだったし、おふたりも、ばらばらでかまわないとのことだったので、そのまま一枚だけ渡すことになった。
 話がまとまりかけたとき、むこうから
「おいくらですか」
と警戒した顔でいわれたが、無料のイベントのチケットなので、当然無料でと告げる。びっくりしてすごく喜ばれた。他のおっさんには、ものすごい金額をふっかけられていたらしい。


 隣の席になったのは、とてもふつうに良い方で、並んで楽しく過ごさせてもらった。いちばんの推しはそれぞれちがっていたが、ちょっとイマイチじゃね?、と思うアーティストについて、傾向が一致していた。ああ、この人うまいけど客をのせるのがいまいちだね(ケミちゃん以外でもそういう人はいたの!!)とか、このひと有名だけどそんなにうまくないんだね、とか。あははは、えらそう。
 終演後、同行者さんの同行者さんに再会して、お元気で軽くあいさつして、別れた。ライブは全体的にとても満足したし、楽しかったし、その人も楽しかったようだった。


 でもすでにあったチケット一枚は、8千円ほどで手にいれたらしい。一万円以下ならちょろいかもしれないが、無論そういう話ではない。そもそも無料のチケットだ。0円に数千円である。けしからん、違法行為だ!、なんてまでは思わなかったけど、数千円と0円で同じライブをみた、ふたりの友情はその後大丈夫だったのかなとは、なんとなく気になった。
 いやいや、そんな心配する必要なくね!!、と頭のどこかでは、同時に思っているので、良心の呵責というほどではないけれど。


 チケット転売も、ぶっちゃけ、小さな利益で満足していれば、ややこしい話にはならなかっただろう。でも、景気は悪いのに(悪いからこそ?)、数万円とか、一桁あがる世界になってしまった。そりゃもう、反社会的な集団の稼ぎになってしまう。転売の何が一番悪いってそこだ。自分がどうしても会いたいから、純粋に会いたい気持で、とか、そんなのは1ミリもピュアではなく、ただの罪なのだ。反社会的組織に資金提供している、犯罪者に加担しているのだ。推しへの思いを、自身の魂をそんなことで汚してよいものか? それで推しが関係ないをつらぬきとおせると思ってるのか? チケット転売が問題になれば、推しサイドが「すいません」とか言うはめになる。(まあ人気がですぎたらそれなりの責務は生じますけれども》
 そもそもピュアな思いでもなんでもなく、自分が快楽を得るために金を払うだけで、税金がすべて健全な使われ方をしているわけではないように〜〜〜とか、言い訳はなんでもできるわなー。


 願わくば、あのひとが、0円に数千円をだしたのは、あとにもさきにもそれっきりだったらいいなあ、と思っている。あの人たちは、いまはどうしているのだろう。お互いさまの話だけど、当時と同じ推しをゆるゆると推しながら、なるべく健康に生きてくれていたらいい。