茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

学歴と体型ととある思ひ出

 もう四半世紀も前の話だ。とはいえ、だいたいの関係者が生きているので(亡くなった人もいる)、書き散らかすのはと思っていたが、このまま忘れてしまうのもだめじゃないか、と思って、とある匿名日記を読んで、ふうわりと思い出したことを書いておく。


 大学時代のサークルに、一風変わった人がいた。変人はいろいろいたが、その人は他の変な人とは一線を画す特徴があった。「学部学科差別がひどい」のである。いまどきならそれはヘイトだよ等、ちゃんと非難する人がいるかもしれないが、その当時は、その人は表向きはふつうに扱われ、裏では苦笑いされていた。それはおかしいことだよ、と周囲の人がいってあげるほどの価値もない扱いだったのである。上級生からはとくに。
 同級生でもないし、親しくないから、さほど詳しくその人を知らない。もしかしたら、その他の点については、ふつうにいい人だったのかもしれない。
 でもその学部学科差別からすると、ワシなどはヒエラルキーの外にいるのは明らかだった。政治学政治学科だけがその人のなかでは価値があり、その次は経済であり、その他の学部だったのである。できたばっかりの怪しい名前の地の果ての学部など、視界に入るホコリですらなかっただろう。
 そのひとは、学部学科飲み会をやりましょうよと言っていたらしい。サークルの全体数は、120から150人か、もっといた?。大所帯であったこともあって、サークルの内での学部の集まりは年に一度くらいはあった。結束が高いというほどではないだろう。学部のなかに学科もあるから、先輩の話が参考になる、というほどにはなかなかならないので、まあ、一度くらいのみましょか、程度である。しかしその人は、「学部学科」にこだわり、ことあるごとに、先輩に、同じ学部学科ですという理由で、声をかけて飲み会やりましょお〜〜といっていたようだ。みな懸命なので、ああ、いいねえ、そのうちね〜とお茶を濁して逃げていたようだ。


 その人が糾弾されなかったのは、外見がちょっと特徴的だったからだ。大学、サークルにおいては、かなりふくよかなほうだったし、オーバーサイズなど概念があまりない時代だったし、ぱつんぱつんの服をきているから、印象として「太っている」という範疇に入っていた。(よくよく振り返れば、あんなの太ってるうちに入らんのだ。こちらもまた狭い世界に生きていたゆえの愚かさであるが。)その人は、ちょっとおデブちゃんな上に、顔もぱんぱんで、そのくせヒエラルキーの一番上の学部学科だからとなんかしらんげど常にドヤっていたのである。
 その人は後輩だ。直接ではないが直接のような微妙な後輩だ。接点を持とうと思えばもてなくはないが、私はヒエラルキーの外の人だからと自分を区別して、否、その人の取り扱いには徹頭徹尾差別していた。近づかないようにしていた。露骨に態度や発言が変わるようなひとに、対等な口の聞き方ができるほど、(いまもあんまりかわらんが、)自分は大人ではなかった。トラブルを避ける上では、それはよかったと思う。


 その後、その人がずっとサークルにいたのかとか、よくわからない。興味がないし、興味の持ちようがない。就職先も知らない。トップの学部学科であるし、よそいきの会話はうまそうだったので、それなりのところにいったかもしれない。あるいはそのときにはじめて、容姿で分別されるという社会の理不尽さにぶち当たったかもしれない。


 もしかして、ふつうにしていれば、ふつうの人だったかもしれない。普通に笑っていれば、ヒエラルキーなど構築していなければ、とくに太っているようにも、絶対にきれいとはいえない顔ではなかったかもしれない。差別的な傲慢な態度や思考を露骨に外に示してしまうような人は、そういう顔になる。


 卒業後、数年もたたぬうちに、あらゆることをものすごい勢いで忘れていたはずの日々。
 だが、なんと、

 最寄りの駅ででくわした。朝の通勤時間帯に。

 自分がこちらへ引っ越してきたのだが、その瞬間に、あ、そんなことをこの沿線に住んでいる同期が言っていたような…!、と脳裏に蘇った。同期もまた、同じ沿線だからという理由で話しかけられるの嫌だなあ、と暗に示していた。同じ沿線の先輩だから仲良くしたい、好感度が抜群に高い人だから仲良くしていた損はない、だが学部学科のヒエラルキー的には圧倒的に上であるッ…!、が露骨にダダ漏れだったようだ(やや盛ってる)
 もちろんふりかえって確認はしなかったし、話しかけるわけはなかった。あいてはこっちを覚えていないだろうし。覚えていてもこちらかゴミクズチリアクタホコリでしょうから(言い過ぎ)。
 何度か朝にみかけたが、幸いこちらがどんどん社会人としては劣化していった(通勤時間が遅くなった)ので、ずっと朝にみかけるということはなかった。トータルで、5、6回はみたかもしれない。


 いま、あのころの、二十歳前後や二十代の自分たちを振り返れば、どっちもひどかった。君がやっていることは差別だよと言ってあげることを、先輩の立場からした人はいなくて、ましてや自分は、あの外見でいうか!、みたいなひどいことを考えていた。同期がなにかいったり、話をしたりしたのか、一度くらいはそんな話をきいたようなきもするが、もう時空の彼方だ。

 その後、サークルや大学でどのような経験をして、子供の無邪気な残酷さみたいなものから、どの程度脱したのかわからない。その体型や顔も、もしかしてすごいコンプレックスだったのか、それとも全然気にしていなかったのか、わからない。社会人となったとき、どんな立派な会社に勤めていたか、わからない。体型は変わっていなかったから、コンプレックスだったのかもしれない。


 あちらには強烈な学歴差別があり、こちらには体型や容姿について差別があった。

 若さなんてそんなものだろうか。いや、関係ないのである。女はこうだ、男はこうだ、ということどうように、体型がどうとか、顔がどうとか、差別意識が強かったのだ。耳の聞こえない人はこうだろう、目の見えない人はこうだろう、〜〜出身の人は、〜〜の国の人は。そんなことだらけだ。
 区別と差別は難しくてキリがない。生きているあいだに、みっちみちに自分のなかにあるさまざまな差別意識を減らしていくしかない。子供が成長する、大人になるというのは、ある一定の「これはこう」という常識を身につけることであり、「かつそうでもない」ということを同時に身につけられたらいいけど、多様性の教育が進んでも、たぶんなかなか難しい。それはそれぞれの違いや魅力があるということでもあるからだ。同じでないから面白く魅力的で、トラブルにもなる。


 いまはあの人は幸せだろうか。いや、どうでもいい、つうかまじ興味はないんだけど。たぶんそこそこいい人生を送っている。そうでないと、もしかしてすごい転落していたりしたら、それはそれでちょっとあれ。大きな浮き沈みがあると、勝手に憎らしいと思っていた自分の気持ちのせいだと勝手に感じるせいかもしれない。


 ぜんぶぜんぶ記憶の彼方になってきた。後輩や先輩の顔や名前ももちろん、同期もだいぶあやうい。それでも、ふとしたときに、ふわああと思い出して、ありゃあれは自分もだいぶひどかったな、なんて思うのは、文章や作品のいい点じゃないかな、などと思った。