茶ぶろぐ

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年末だが何もしていないのに書くことがない

 という訴えについて書きたい。
 頭がもやもやする。気持ち悪い。気持ち悪くて、写経(お経ではなく文章)をしたら、ちょっと軽減した。面白い。手書きで短歌をいくつかとか、小説の一部とか、古典とか。
 手書きの書写しの場合は、古典がなんかいい気がする。手間がかかるからだろうか。
 古典はファンタジーに近い。空想ではなく、距離という点に置いて。ファンタジー、SF、海外の翻訳小説を読む比重が高いことと、古典はあんがい楽しいというのは、いまの自分と距離があるからかもしれない。
 現代に近い日本の小説は、まず価値観の差で気持ち悪くなる。村上春樹の女性像とかそのわかりやすい典型例なもので、故になかなか読めない。出会いも悪かったし。もっと歳をとって、もっと距離ができれば、読めるかもしれない。源氏物語とか、古典の恋愛って、要するにやりたい放題じゃん。


 最近長文を読む人がつらいという人が増えているのは、スマホのせいではなく、生活が苦しいからだ。長い小説などを読んだり生産することができるのは、太古から、「日常生活」を他人にやってもらっている人の特権だ。私たちはひろく貧乏で生活が苦しくて社会がしんどい。だから小説を読むのは無理で、しかしTwitterはできる。Twitterが現代の万葉集になる日は来ないだろうけど、短い呟きでやりすごしているのだ。

 漫画だって、最近は読めない人は多いらしい。鬼滅の刃だって、簡単な漫画ではない。コマをちゃんと追わないといけないし、文字も読まなければならない。あるコマからあるコマへ遷移したとき、そのあいだを補うことができない人は、漫画を読めない。
 漫画も時代性があるから、昔の映画が見にくいように、読み慣れない時代やジャンルの漫画を読むのは難しい。いま人気漫画を読めるのは、その読み方をしっているひとが多いと言うだけだ。
 あるいは、優れた作品は、そのジャンルに不慣れであった人をも、取り込むきっかけにはなる。鬼滅の刃の原作の売れっぷりは、そのひとつになるかもしれない。だって全然買えないんだもん。しくしく。

 現代は小説にくらべると、あっとうてきに優れた漫画作品が多い。文字のほうが頭がおかしい作品がたくさんある。文字だからこそいろんな意味でキレたことを表現できるし、それが強みではあるが。ただ漫画は、文字の文章以上に、時代を大きく内包していて、それゆえに当たるとメガヒットなのだが、時代から離れると、読解にはある程度の事前学習が必要になる。その幅は、小説と漫画では、どちらが狭いスパンになるかわからない。たとえばいまの漫画が、夏目漱石ほど時間がたっても読まれるかどうか、である。描き手の寿命も伸びている。手塚治虫の漫画でも、最初期のものをちゃんと読める自信はない。二、三百年、四、五百年、千年単位。伝わるかどうかなんて、結局時間が立たないとわからない。そこまでのこらないといい作品と言えないわけではない。解読するのに事前学習が必要になるのは確かだ。

 そうだ、年末だが、何もしていないのに、書くことがないというのは、極力いろいろやらないようにしているつもりなのだ。大掃除もクリスマスもお正月も控えめ。見栄を張らない、張り切らない。そのつもりなのに、なんだかやることがいっぱいで落ち着かない感じがしている。
 最近毎日、起きてご飯食べて、洗濯して、死なない程度に掃除して片付けて、食べるものを考えて、ご飯を買いに行ったり作ったり、食べたり、疲れて休んだり、金勘定したり、こつこつやるしかないことを、英語とか楽器とか筋トレとか、何日かおきにちょこちょこやって、そうだ、毎日やることだけで時間が埋め尽くされている感じがする。精一杯じゃないのにいっぱいいっぱいで、ちょっと何か増えるとあたふたする。

 という感覚は、渦中にいるとわかっていないから、混乱しているのかもしれない。軽く混乱した状態が継続している。あんがい、あんがいパンデミックに人はなかなか慣れないものだな。
 断捨離もしない。ゴミ捨て場がいっぱいになるから。断捨離なんてむだだ。普段から捨てられないひとはまとめて整理して捨てるとかも、無理な話なの。