茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

ミュージシャンの孤独を想う

 covid-19のパンデミックでは、クラシック、ポップスなど関係無く、ホールやライブハウスで、ステージに立って音楽を奏でるという業種は、ものすごい打撃を受けている。音楽のジャンルを問わないという話は、なんだか珍しい気がする。プロの方たちのようすをSNSなどで垣間見ていて、その孤独さについて想像しているうちに、もしかして、ステージに立っている人たちは、こっちが思っている以上に、客席のお客さんのことが好きなのではなかろうか?、などと考えた。
 すでに音楽を生業としている人にとって、死活問題であるのはもちろんだが、それ以上に、アイデンティティーの問題なのでは、とか。自分が自分である意味、自分がいる意味、自分とはなんぞや? ひとりで弾いても意味がない。「音楽を人に演奏して聴かせ、その反応をえる」までが、そのひとにとっての音楽であり、生きる糧であり意味なのだ、おそらく。

 そんなのあったりまえさ、あったりまえだよ、だから音楽でくってんだ

 自分がライブに行くとき、聞きに行くとき、そこまでは想像してなかったからさ。
 ステージに立つ人にとって、客席にいる、聞く、反応する人たちの存在というのは、こちらが思っているより、想像しているより、精神的な意味での生きる大きな糧になっている、たぶん。量だけでなく、その質も、おそらくはイメージしきれない。(個人的に、楽器を多少弾くくせに、その理由がはっきりしないというのもある)
 単に仕事がない、売れない、というわけではない。みんながみんな、音楽の大きな部分を抑圧されている。音楽を一人で歌うこと、弾くことはできるが、孤独である。彼らにとってその孤独ははかりしれないほど濃く深く強い。自分自身に奏でることは、それはそれなりの意味があるが、それはそういう人たちにとっては、重要ではあるが、ごく一部でしかない。そのような孤独な作業だけでは、音楽が鳴り続けるのは難しいだろう。だからいま、あの手この手や音楽以外の発見も通じて、自分のなかの音楽の継続をあれこれ模索しているのだと思う。キャリアの長い人ほど、はっきりとその辛さを口にするのは、やっぱり年だからもあるし、大御所がはっきり言うことで、若いミュージシャンの孤独な思いを代弁しているのかもしれない。
 いつかは、いつかはライブで再会できる。でもすごく遠いのだと思うと悲しくなる。でも再開は小規模プレミアムライブからでもかまわないから、一日でもはやく、ひとりふたりの観客にでも、その瞬間を生きている音楽を届けて欲しい。