茶ぶろぐ

40代のライフスタイル@TOKYOブログ

体験を語り継ぐこと

 昨晩のラジオで、被爆体験を語り継ぐことを話題にしていた、と思う。なんとなく途中を聞き流していたので、曖昧。
 被爆者本人が語り、その家族が語り継ぐ…。
 本人が体験を語ってくれることは、すごく貴重で重要だと思う。本人にとっても、社会にとっても。いまの時代なら、ぜんぶすべて録音録画して残しておくべきだ。
 でも、こういった体験を語り継ぐ人を「本人」とか「家族」だけに求めているとしたら、そういうったものしか聴くに値しない、語るに値しないと思っている人が多いなら、変な話である。
 ラジオでは最近は語り方もかわってきたという話題もしていたようだ。他者が語り継ぐこともはじめられているのだろうか。


 こどものときから、いろんな戦争の話をきいた。広島、長崎の原爆、沖縄、東京大空襲、地元の空襲など。いまは見聞きしておいてよかったと思う。でもとある原爆記録映画をみにいったときは、ずっと目をハンカチでおおって、画面をみなかった。気持ち悪くなるからだ。それを親はとがめるようなことはしなかったし、そのときの自分がそうしたことは、よかったと思う。


 原爆や空襲などの出来事を見聞きするときに避けて通れない、「気持ち悪い」こと。いまとなっては、その本人の性質、受け止め方、あるいはそもそも体調とか、いろいろ個人差や場合があって、無理矢理、凄惨なものをみることが必ずしもよいことではないことは、だいぶわかってきている。だが、あるていどについてはその「気持ち悪さ」をこえて知らなければならないことがある。
 あと、「唐突さ」問題。昨夜のラジオでもすこし話題になっていて、こうの史代さんの作品がとても自分に響いた理由がわかった。


 のんきに生きているこどもには(過酷な条件下のこどもがいるが)、日常が唐突に分断される残酷さが、正直そんなにわからない。とくに昔は、爆弾がおちて、焼夷弾がおちて、というところからたいてい話がスタートするから、火とか焼け野原とかそれによって、やけどをしたりケガをしたり死んだりしてしまう、ということが、直接的な「怖い」「してはいけないこと」の対象となる。
 その感覚は長いこと、大人になってもつづいていて、極端なはなし、こうの史代さんのマンガを読むまで続いていた。いろんな映画やドラマもアニメもみただろうけれど、ここまで伝わってくるものは、ひとつもなかった。


 小中学校でうけた教育が間違っていたわけではなく、ちょっと足りなかった。原爆や空襲という凄惨なことをダイレクトに伝えることも必要だし、それ以外の部分も必要だった。
 そこはいま現代社会が突入しようとしているかもしれない、暗黒面についてだ。結局はそこを避けているから、直接的な暴力だけ教育するから、「自分がその対象にならなければ関係ない」という傲慢さも、ずっと同時に教育してしまっている。
 どんな戦争をしていたのか、なぜ戦争をするにいたったのか、それを教育していない。自分もいまだにたいして分かっていない。ただなんとなく、永続的な権威が欲しい、階級が欲しいという層が、同じようなことをしようとしているのかな〜〜という感覚はしている。だが感覚が弱いから、知識や教養が弱いから、そのゲスい人たちを適切にあぶり出して冷静に指摘することができないんだろう。ある意味、戦後の教育は適切だ。


 閑話休題(どこから??)
 何かを「継ぐ」ということについて、日本人は血とか家とかにこだわるけど、それはぜんぶ無駄だし、「継ぐ」ことの障害でしかない。あらゆる「継ぐ」ことについて、性別、国籍、人種は不問だ。継ぐ内容を会得するために、その土地にある程度留まることは重要である。それが何日なのか、何年なのか。フランス料理を学ぶためにフランスに行くのは、必然であり自然である。継ぐために、継ぐものが生まれ育つ必要はないが、その内容によって、その土地に、ある程度の時間は、生活する、生きなければならないところはある。継ぐに値するものは、たいてい水や風土と密接に関わっているし、その支配をうけているからだ。


 原爆の体験について、遠くの国の人が適切に知識を得て、遠くの国でも語り継ぐようになることを、目指さないのかなあ、と、不思議になる。当事者が語ることももちろん大事だけど、時が経たらぜったいにいなくなってしまうのだ。伝播していく途中で、あれこれ創作が入ってしまうのは、仕組み的に避けるべきだけど、日本人はそういう仕組みを作るのはすごく下手かも。