茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

『沈黙』とかくれキリシタンのうたと内的必然性

 むかし『沈黙』を読んだ。すごすぎて読み終わったあとにう〜おぉ〜ええぇ〜〜〜とうめいていた。それからつづけて遠藤周作の作品をいくつか読んだ。


 大学のとき、合唱団で、柴田南雄の、かくれキリシタンの賛美歌(オラショ)を元にした歌を歌った。(最近テレビで柴田南雄の曲をやっていて数年ぶりに名前を思い出した…)


 柴田南雄『宇宙について』


 大人数で演奏して、曲ごとに分担もあった。その一曲が、かくれキリシタンに伝わった賛美歌、オラショから、作曲家がメロディとことばを譜面におこした、というような作品(だったと思う)。所属していた合唱団では普段バッハやその他ラテン語キリスト教の宗教曲も歌っていたが、さあこれは、どうなのか。原形をほとんどとどめていない。ふしぎな音の動きと、ことば。


 全体でへんな曲ばかりで、みんな苦戦していて、わからないのがたくさんだと、集中力を欠いて、だらけた、なまけた空気にももなる。そのとき指揮者が「内的必然性」の話をした。曲の全部はわからない、わかることはできないかもしれない、でも内的必然性をもって、一音一音、その音をだす、歌う、音楽を奏でる。そう「しなさい」とはいわずやんわりと学生たちに話した。それはもっといろいろもう少し長いことばだったけど、覚えていないけど、それは効果覿面で、みんないっせいに集中力をとりもどした。一つ、その音をうたう、ための、その瞬間の、自分の内側からの、必然性。心から、身体から、どこか内側からつながったべつのところからの? ともかく内側からの、必然性。(と自分は解釈した)


 合同演奏曲の歴史 | 東京六大学混声合唱連盟 <=ここで記憶をえぐった。(すごいサイトだえらいぞ…!)


 いろんなタイミングでひとは心がうつろな状態で何かを為そうとしているときがある。そのときふと「内的必然性…」と考えるのだ。


 この手のいわゆる難解な現代音楽は、演奏しているほうがずっと楽しい。阿波踊りと同じ。卓越した演奏者なら、聴衆にも同じ感動を与えられるのかもしれないが、当時はどうだったであろーか。


 映画の話題でむかし読んだ本を音楽を思い出す。音楽はどうしたことか、かかわったのはほんの短いあいだなのに、そのときの感覚や(衣装は上が白で統一されたっけなとか)、本番のステージでソロの人が肝心なたくさん練習したパートをすっとばしてもったいなかったなあ…とか、思い出す。


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