茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

体育教師と体育の授業についての恨み言

 昔から鈍くさい。走るのだけはちょっと早かったけれど、早く背が伸びていたあいだだけ。放物線を描く物体が致命的で、あらゆる球技はもちろん、バドミントンもダメだった。飛んでくる物体は受け止められないの法則。それでも、小中学校では、ひどい劣等感を抱くことはなかった。できる子とできない子がいる。それだけのこと。みんなそうだった。だがしかし、高校に入ったらひどかった。


 高校は都立で上から数えて早い名門校だ。偏差値が高く、早慶をけってきたと言う人も多く、親は大学教授、弁護士、医者という家庭も少なくなかった。PTAの会長は東大教授がつとめるなんていう話がまことしやかにあった。それでも公立高校なので、ふつうの家の人も多かった。
 中学校では五本の指みたいなこどもばかりがあつまるので、ふつうの人は五本の指ではなくなる。学力的挫折は覚悟していたし、仕方がない。でも体育の授業やクラスマッチで鈍くささを披露したとき、ものすごい目つきやそこはかとない低レベルな言動をむけられた。びっくりした。


 まったくもって育ちが悪い連中だ。頭が良くて偏差値が高くても、親の収入が高くても、育ちが悪い人がいるのだ。くわえて、この高校の体育教師たちは、何かと生徒たちをメノカタキにしていた。偏差値の高い学校だからって体育の授業をなめてかかるとしばくぞ、みたいな感じ。それなのに保健の授業は適当すぎた。他の教科にくらべて明らかに稚拙な授業だった。だから体育と体育の教師が満遍なく苦手で嫌いだった。


 四半世紀前の話である。
 しかし、現在の体育に関する授業や教師の非合理的な話をみかけると、なあんにも変化がないようだ。嘆かわしく腹立たしい。


 白い眼を向けてきた生徒は今頃社会の支配階級になろうとしているだろう。当時の教師たちはもう引退して、第二の世界で今日も誰かを虐げているかもしれない。恐れながら高校時代の恨みはまだ忘れていない。「体育教師」や「体育の授業」など全部全部嫌いなのだ。そして体育会系のひとは、基本嫌い。


 だが運動神経のいい人は好きだ! 運動神経がいいことと体育会系は一致しないのだ!


 大学は体育が必修だった。しかしたくさんある競技のうちから好きなのえらんでいいという、画期的システムだった。くわえて教えてくれる人は、学校の教師ではなく、その筋の専門家がきて、もったいないくらいの授業だった。できなくて下手でも楽しくてエキサイティングだった。他の種目をとっている人も楽しそうだった。


 からだを動かすことは、本来はそれ自体が充実感や喜びがあふれるはずのものだ。それなのに、学校教育における「体育」は、戦後どころか戦前から何もかわっていない。そういった時代遅れの感覚が、身体どころか精神の不健康もうみだしている。日本社会の足を引っ張っているのは、古い体質の体育会系思想、いわゆる脳みそまで筋肉という連中なのだ。