茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

『鬼滅の刃』は男子なのか長男なのか

 原作は未読、アニメのみ。


鬼滅の刃』は「男子」なのか「長男」なのか。
 そういう感じなのかな〜と思って見始めたが、だいぶ違った。主人公炭治郎は確かに少年で長男だが、多くの指摘もあるとおり、ほとんどのきょうだいを亡くしており、実際に守るものはわずかで、生き残った禰󠄀豆子は単なる庇護される弱者ではなく共闘する。ともに戦うのだ。
 序盤の、禰󠄀豆子が担がれていた箱からでてきて、動きはじめるところはなかなかぞくぞくと血が騒ぐところである。禰󠄀豆子は純情可憐にみえるヒロインでありながら、かなり強いのだ。
 炭治郎は自分は長男だからと己を鼓舞する。確かにそれは、「男子たるもの、長男たるもの」という、散々日本人を呪ってきたことばと似通っているというか同じだが、さにあらず。彼は彼自身に対してそれをいうほど、痛々しさと勇気が胸をうつ。それは単に彼自身が自分を勇気づけるためにいっているだけで、別になんでもいいからだ。禰󠄀豆子を人間に戻すというのは、唯一絶対の宿願であり、それは大きな精神的支柱だ。それがあるからこそ彼は生きて正気を保っていられる。彼はある意味ぜんぜんいわゆる男子でも長男でもないのだ。そういう明るく元気なのに過剰な痛々しさをみせないのは、ものすごくうまいところ。(果たせない場合のパターンを想像すると、もうお先真っ暗絶望エンドなのだけど、少年マンガだからそれはないと信じたいが)

 登場する女性キャラの数はやや少ないが、弱くはない。けっこうえげつなく強い。頭空っぽではなく、どのキャラクターにも、敵のキャラクターにさえもバックグランドが丁寧に考えられているところをみると、いまのところは、この女性蔑視がああというところはない。まあドキドキするところはあるけどね。カワイイのはまあ少年マンガだから、現代の読者に受け入れるためには多少はしょうがなし、時代的な好みはでるだろう。


 なにせドキドキは男性キャラにも十二分に発揮されている。炭治郎は明るくけなげで主人公でまだふつうだが、泣き虫へにょへにょで女の子にはみさかいなく平等にラブコールするのに眠っているときは激強の善逸、猪の頭をかぶって猪突猛進考え無しに暴れまくる腰ミノで上半身脱いでいる暴れ者だが素顔は美少女のような激烈美少年伊之助。伊之助の素顔が登場したときは、日本の伝統的美少年文化を平成令和に狂い咲きぃな趣味全開っぷりに脱帽した。彼ら三人とくらべると、冨岡さんの(現時点での)薄味っぷりがバランスがよい。三人の少年の上に、こゆい美形だったらたぶんだいぶやばかった。


 閑話休題
 というわけで物語として男女差別はあまり感じないが、マーケティング的にはキャラクター造形でつっこまれても多少は仕方ないと思う。でもいまの市場に受け入れられないといけないもんね。金森氏も言っていた。
 物語を象徴している台詞は「生殺与奪の権を他人に握らせるな! 」だし、もうそれにつきるんじゃないかと思っている。鬼とかあれこれ書いているけど、これをいうために、伝えるために描いたんじゃなかろうかと。だって最初に言わないと、連載はいつどうなるかわからないからな、ジャンプだし。
 中島みゆきの「宙船」の歌詞にもある、他人に「おまえのオールをまかせるな」。若い人に限らず、中高年も、そこをまずは常に思い出さねばならない。生殺与奪の権をつねに自分の手にもつ。いつの世の中でもそれは常に容易ではない。いろんなものにおびやかされ、ぎりぎりのシステムの上で生きていることは、新型肺炎の騒動でもみな感じ取っているはずだ。知らぬ間に、何かに支配され、流されるままに選んでいる。大ヒットしているマンガを読んでいる、その狂乱じみた盛り上がりに参加するのも、他人に何かを奪い取られているところはある。
 人を食らう鬼は、とりあえずいまの世界では絵空事だが、自分の前に理不尽に立ちはだかるものに対して、どう戦うかについて、物語はヒントをくれる。絶対ではないが、欠点もあるが、勇気と諦めない心を強く呼び起こす作品は、いいもんではなかろうか。(何を諦めないかは運かつ自己責任なところはあるけど)