茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

春の光と若い人の死

 とある若い芸能人の訃報が流れた。自宅で急変して病死とは、まだ判然としないところがあるが、突然の出来事らしく、知っている人も知らない人も、やや呆然と弔意を示す。


 陽射しの明るさにだまされて外へでると寒さに凍える陽気になると、春先に死んだ若い友人のことを思い出す。あれから15年。だんだん日々は遠くなっていくが、自分が年をとるほど、早死にはいかんなと怒りと悲しみがない交ぜの思いがつのる。なぜ怒るのだ? なぜ怒る必要がある?


 若い人の死というのは、珍しいものではない。高校の間に病死した同級生、川で溺死していた同級生、大学で病死した人、自死した人、社会人になって間もない頃に事故死した人。(多すぎ?)
 15年前に死んだ友人は、本人はまだ学生で、自分は社会人何年目かで、ボーダーなのも甚だしいタイミングだ。話がこんがらがるのは、死因がはっきりしないことだ。「心臓がとまった」と家族は話していたが、病名ではない。自死なのか、心不全などの突発的な死なのか。


 いやいやいやいや、いまとなっては、自死でしょう。自死以外にない。どういう死に方をしても本人に対する評価はかわらない、関係無いっちゃ関係無いけど、なんだかこう、はっきりしないのは、結果的に、別に良い結果にはならないかなと、いまごろ、また思ったり。いや、曖昧な言い方をして、家族が救われるなら、それでいいのかもしれないと思ったり。難しい。悩ましい。


 若い人の突然の訃報。病死ではあるらしいが突発的な死。プライベートな身近な人、仕事の知り合い、ファン、訃報ではじめて名前と年齢をきいて、驚く人々。どうにもこうにもショックは大きい。そして、思っている以上にあとをひく。


 なぜ死んだのだろう。どんな死に方かは、関係無い。なぜそのとき、その人の人生は終わらなければならなかったのだろう。ただその「なぜ」が、ずっとぼんやり残り続け、日常生活のなかで埋没しても、また時間がたつとぷっかりと浮かんでくる。


 春の光、凍える風。刺すような光と風。美しい光がまぶしいたびに、悲しみと怒りが自分をとらえる。