茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

「〜〜が〜〜ですごい」の中身あるいは

「〜〜が〜〜ですごい」の中身あるいはひとはなぜそのようなタイトルに弱いのか。


 自分も「すごい」という単語を一日に何回もつかっている。主にツイッターで使ってしまう。語彙がないからだ。驚きをその他で簡単に言い表せないからだ。「すごい」人が「すごい」といっていると、その人が「すごい」というのだから本当に「すごい」のだろう、と見に行ってしまう。


 だが言わずとももうみんな分かっていると思うが、自分で出会った「すごい」と比べると、「すごい」といわれてみた「すごい」は、全然すごくない。感動が何割も減る。


「すごい」という言葉を使わずに、自分が他人にもすすめたいものに誘導してかつ「すごい」と思ってもらう。それ何欲求か知らんけど、プロアマ問わず、「すごいから見に行ったほうがいいよ」は他の言い方をしたい。して欲しい。


 そうはいっても、「すごいひとがすごいというものはすごい確率が高い」けど。でも、自分で「すごい」と思う前に「すごい」といわれたものは、感動が目減りしているのだ。その目減りが何が悪いのか、そりゃまぁ、新鮮さがちょっと減ってるような感じ。うまいものなら、新鮮なものくいたいじゃん。


 足を運ぶとか、現地へ行くとか、そうしなければ見られない、体験できない「すごい」系は、まぁ「すごい」を使ってもまだいいけど。たいていそういう場合は「いうほどすごくなかった」というオチが多いけど、それは体験になるから。


 すごく「すごい」に囲まれて、閉塞感も増している。