茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

名探偵コナン 三人の声

 Huluで名探偵コナンをたらたらみている。夕方以降の家事のBGVにちょうどよい。声優さんがうまくてみんなたくさんしゃべる。どうなっているんだと画面をみにいくこともあるけど。だからちょうどよい。
 むかしから気にはなっていたけど見ている作品ではなかった。アニメをわざわざ録画してみるような生活をしていなかったからだ。最近も観られたらラッキーぐらいで、とくに本編を追っかけていない。
 だからHuluでみている範囲は、むかしのが多い。見尽くしたらだんだん現代に近づいてくるだろう。

 観ていてぼんやり思ったのは、コナンはほぼほぼひとり三役だったのだなーということ。新一とコナンは基本であるが、それ以外に小五郎の声で謎解きが多い。映画やスペシャルではコナンが多いだろうけど、テレビのレギュラーでは、小五郎だろう。コナンが小五郎でしゃべるとき、コナンであることはあまり意識されていない。小五郎がふつうにしゃべっている。けれども、絵ではコナンがしゃべっているのである。

 どんな事情でキャストがかわったのか、それはたぶん視聴者は知らないでいいことだと思うけど、魂をわかちあっていたなんて大げさかもしれないけど、長い間現場でひとつの作品、キャラクターを作り上げてきた人たちどうし、どんな気持だったのだろうかと、時々考える。あとからそこに加わった人の心境も。

 小五郎に限らず、コナンのキャラクターはそれぞれできあがっている。できあがっていたからこそ、変更も可能だった。極端な話、コナンだって変わりうる。作者や制作者や声優など、いろんな人たちの積み重ねの結果、キャラクターが完成してしまっているからだ。完成しているから変わりうる。ちょっとせつない。

 あまりにも長く続くと、漫画やアニメも、それ自体が時を孕み続ける妖怪のようなものになる。いまそういったものがたくさん日本には生まれつつある。コナンはどうなるのかなぁ。キャストの声や、いろんな事情で歯抜けでぽろぽろ変わる前に、メインのストーリーは完結してほしいと日々願ってる。


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94巻は映画とメディアミックス…??
苛酷だわ。

視野は欠ける

 視野が欠ける、かもしれない。いや、もう欠けている。どっちだろう。かもしれない。


 40才になる前から、緑内障である。病気というのは千差万別十人十色、患者の数だけ容態と治療がある、のだが、自分は目薬をしている。していても、じりじりちょおっとずつ悪くはなってはいるらしい。


 それを検査するのは、「視野検査」というまんまのものだけど、さて、それが、すごく面倒臭い、すごく嫌だ。毎回、「ちょーいや」と思っているのは、検査結果にどのようにでているのかと、毎回気にはなっているが、たぶん関係無い。それが検査だもの。


 問題は、死ぬまで、視野を、視力を、維持しなければならないということである。ちょっとまって、平均寿命何才? 考えると、ちょっと憂鬱になる。年をとってから視力を失うとか、大変そう。


 しかし、早く気がつけたのはらっきだー。健康診断はだいじだよ。
 なぜならば、「視野が欠けてる!」なんて自覚症状がでたときは、もう完全手遅れ(らしい)だからだ。そこまですすんでいたらなすすべはないという。
 何年も健康診断うけてないわ、なんていう、おっさんおばさんをみるたびに、「ケッ」と軽蔑している。


 緑内障は、状態の病気で、ましな状態を維持するという地味な攻め方しかない。なるべく悪くならないようにする。わかっちゃいるし、目薬なんてそんなにしんどくないけど、定期的に目薬をもらいに診察をうけにいったり、視野検査をうけにいくのが、たいしたことじゃないのに「とても面倒臭くて嫌だなあ」と思ってしまう。いやいや、そんなこといったって、しょうがないけどね。しょうがないけど、めんどくさいものは面倒臭いし、嫌なもんは嫌なんだ。そういいながら、目薬をさしてお医者さんへ通うのだ。


 診察も検査も目薬も、痛くもなんともないっすけどね。世の中いろんな病の人がいるでしょうから、これぐらいのことでガタガタいってんじゃねえ案件ではあります。


 つうかさ、もしかしてさ、世の中もっと緑内障でめんどくせえなーと思いながら目薬しているひと、たくさんいるよね、きっとね。まあさして鬼気迫るものでもないから、患者の会なんていらないけど、「めんどくさいよねー」とたまにちょっとひとりごとでもいってくれたら、あ、自分ひとりじゃねえんだな(ここ重要なのかな、心理状態として)、自分だけじゃないんだなと、ちょっと「おなじめにあってるひとが他にもいる」と思えるから(心が狭い)、いっかなー、なんてな。

原稿用紙から

 原稿用紙の四角いマス目を埋めるのは楽しい。いかにも書いているという感じがあってとても楽しいのだが、そこだけに悦楽を見いだしていると、長い文章は書けなくなる、もとい、いつまでも書けない。
 ある程度の長さを書くとき、起承転結とか、話のオチのようなものを考えてる。そのような形式にとらわれているのは、実はとても不自由で不機嫌で非効率的ではないかと疑うこともあるのだが、完全に忘れてしまうのもむずかしい。と同時に、うまくヤマやオチを作れるわけでもなく、ましてや、たいていの書いているもの意味などないしありがたみもない。
 たくさんの絵を描く人が、とにかく描くように、文章を書く人も、たくさん書けばいいのになと思う。なぜ文章ばかりが、情報とか意味とか面白さとか、何かを求められるのだろう。「この人の描く絵はなんとなく好き」というような感覚の、文章もあればいいのになと思う。

湯たんぽについて

 家には湯たんぽがふたつある。同じ大きさ、デザインで色違いだ。一つはすでにもっていたのに、人から同じ別のものをもらった。ゴム製にフリースの布カバーをかぶせているもので、昔ながらのUFOみたいなかたちのものではない。
 とある洋画の舞台裏映像で、超弩級に綺麗な女優さんが、同じようなデザインの湯たんぽの一回り小さいタイプを、写真撮影のときに手にしていた。たぶんそれで、その湯たんぽに憧れがある。
 ほんのり暖かく大変心和むのだが、欠点がある。しっかり閉めないと水は漏れるが、強く閉めすぎても、締まりが甘くなり、水がもれてくることだ。そのせいもあって、また、他の防寒具も導入したせいで、最近はほとんど使っていない。ふたつもあるのに。
 だがまたいつか使うかもしれないと、物置に入れっぱなしになっている。そうやってものは増えるのお手本のようなものである。

手帳について

 手帳やノートを最後まで使いきらない悪癖がある。かつ、文房具やでよさそうなものを見ると、買ってしまう。だから使いかけのノートがどんどん溜まる。どれもけっこうな値段のものばかりだ。
 ちょっと使っているので、人に譲るわけにもいかないし(譲るような相手はいないが)他の用途に変えるのも気が引ける、いや、気が乗らない。かつ、捨てるのもむずかしい。たいしたことは書いていないが、何が描いてあるかわからないし、シュレッダーにかけるには、白い紙が多すぎる。
 何はともあれ、それまでの使い方は気にせず、新しく使えばいいのではないかとも思うが、それもなかなかできない。
 これでも以前ほどは、衝動的に新しいノートを買わなくなっている。先日、なんとかノートの十周年記念とかいう限定ノートを見つけて、あやうく二、三冊買う気になったが、レジに持っていく寸前でやめた。