茶ぶろぐ

おとなのライフスタイル@TOKYOブログ

2017年1月第3週の株の素人。

追記:終了ぎりぎりで売り切る。はじめての利益もでたけどトータルではまだ損してる


 火曜日の朝で某株を指値で買ってみた。これは発注時に上下あるいっていの金額で動いたら、自動的に売り買いする注文もしている。しかしほとんど動きはない。(数字になれていないので動きがないということを認識するのも実は手間)
 先週から引き続きもっている某株は、買ったときより安い。コンマ以下なので金額としては小さいが。前回のうっかりミスでいくらか損をしているので、スタバでお茶する何回分をもう損している。あがんないかなぁ。


 そもそも一週間とか短期であれこれをねらっているわけではなく、売り買いやシステムになれることが目的なのだよ。しかしすぐ損したなぁとか儲かるのかなぁ、とかそういうことばかりを考える。


 余剰資金がなければ株はやるなというけれど、若いうちから、それこそ学生ぐらいから、株になれることを目標に数万円からやってみたらいいのにな、とかは思う。おばさんになってからではいろいろ頭がおっつかない。学生は口座つくれるのかな? 二十歳過ぎてたら創れそうじゃない?


 それにしてもそもそもいろいろしらなさすぎて、一度本を読んだくらいでは「これこんなのみた記憶すらない」である。ツライ。


 日本時間の今日の深夜でトランプさんが大統領になっちゃうらしいので、とりあえず株は売ってしまいたい。

娯楽や文化にお金を払おう。

 娯楽や文化にお金を払おう。無料だと思っているものは、どこかで誰かがかわりにお金を払っていて、巡り巡って実は君もお金を払っている。わかりにくい形だけれど、世の中にタダで楽しめるものなんて、無いのだ。

 せっかくお金をだすなら、感動をくれるその人、その会社そのものに、直接、ちゃんと妥当な支払いをしよう。もし可能なら、感動した気持ちも添えて。そうしたらその人たちも感動して、がんばって、君を楽しませたり、勇気づけるものをまたつくってくれるから。

 著作権がきれた小説などはタダで読めたりするけれど、それらをちゃんと整理整頓して、いつでも誰でも読める状態にしておくには、お金がかかる。ネットの情報だって、どこかの機械のなかにあるんだよ。機械は置く場所、土地代、電気代がいるんだよ。美術館や博物館、伝統的な文化を保護して存在させるのは、もっともっと繊細な技術や知識やお金もかかるのだ。

 っていう教育を、くりかえしくりかえし、義務教育でしてほしい。

隣の芝生は青くて苦い

どのようなファンのなかにも、内輪でしかわからない用語やネタはある。何が面白いのかわからないことを延々と繰り返したり、笑い転げたり、感動したり感謝の意を五体投地で示そうとする。外部から見れば、何をやっているかわかったとしても、何が楽しいのかさっぱりわからないことは多い。好きでない限り、たとえ好きでも、必要と思わないなら知る必要はないし、知らないことで困ることはない。ましてや蔑んだり憎むことはない。その集団からなんらかの被害を受けたりしない限り。そういう場合は多少仕方がない。愚痴や文句もでてしまう。それでも実はその対象は悪くはないのだが、怒りの矛先はシンボリックなものへ向かう。

 

特に被害も受けないのに、なぜかぽろりと差別的発言がこぼれるときがある。ファンの内輪受けがひどくくだらなく寒々しいものにみえ、その感覚を言葉にして放ってしまう。実は外は何も変わっていなくて、自分が変わっただけなのだが。

 

自分が変わった故にそれまで魅力的にみえていたものが陳腐化したり、別に気にしていなかったことにケチをつけることは、多々ある。変わりゆく戸惑いやストレスか、優越感故か。

 

少年少女が大人になる途中で言動が変わるのは微笑ましいが、大人になったあとではそればかりではない。好きでなくなる、何故かケチをつけたくなる。それは対象やそのファンが変わったのではなく、たいてい自分が変わっている。

 

この種のトラブルや諍いは珍しくない。大人だって変化するタイミングがいろいろあるからだ。大きなものは結婚と子育てだ。後者は不可逆的で、いちど子どもをもってしまうと、もっていなかった間がたとえ40年近くあっても、もう元には戻れない。たくさんのことと引き換えにして子育ては行われる。若さを除いてほとんどはいつか時間がたてば戻ってくる。だが子どもがいない状態には、子育てを終えても戻ることはない。

 

子どもを持たない人は子どもがいる人の気持ちはわからない、となんとなくわかってる。子どもがいる人は、かつてはいなかったのだから、いないということも知っているはずだ。だがそれは思い込みだ。状況を思い出すことができても、その頃の考え方やふるまいなどはもう二度とできないのだ。特に子育て真っ最中という人は、あらゆることが子育てに優先した思考になっているから、ギャップは大きい。

 

埋めがたい差がある。持つものと持たざるもの、得たものと失ったものか。得ていないものを喪失というの変だが、子を持つ人は大きな喪失と引き換えに子どもを得ているのかもしれない。喪失は他のものでは埋められない。いびつな形になったところに、新たに出会ったものをひきよせてまた別の新しい形を作る。

 

 

 

「年齢拒否」はなにがそこまでダメなのか

ツイッターで「年齢拒否」という言葉がバズっていた。ひらたくいえば、同じファンでも30代や40代のおばさんはいやだ、ということである。地雷を踏み抜いたのは、いい年でそんなものにはまっている人は嫌だ、というような文言がはいっていたせいだ。

 

「同年代のファンと知り合いたい」とだけ書いておけば何も起こらなかったのだが、そのとき心の暗部にあったどす黒いものを、うっかり表明してしまったのだろう。SNSウオッチャーは未成年のそういう漏れた暗部を見逃さずに吊るし上げる。体罰する悪質な教師と似た心理だ。

 

自分が年をとったときのことを考えないのかしら、というツイートをちらちらみかけた。それも酷な話だ。先のことをみんないつも想像したり計画してるわけじゃない。好きなものをずっと好きでいるつもりはないのかな?、というツイートもあった。それは半分は真実だ。若い時に一過性のものとしてそのときの私が好きになるから、おばさんはそこに表れて欲しくないのだ。ほかの半分は、同時にずっと好きで10年たってしまった…という可能性。それはそれで修羅の道。

 

年齢に関わらず、自分より年上の世代がとてつもなく醜悪で気持ち悪くみえることはある。ずっとある。二十歳はアラサーアラフォーが怖くて気持ち悪く、アラサーはアラフィフやアラ還がそうで、アラフォーになればアラ還、70代以上が謎すぎて、アラフィフになれば……と、はてしなく。たぶん80歳前後の人は、百歳前後の人が苦手なのだ。知らんけど。

 

未来の自分の姿がそこにあるからだ。規範となるものばかりならいいが、たいていはだらしなくかっこよくないものが目に入る。いちどそういう視点が癖になると、未来がある限りその感覚はなくなることはない。ああはなるまいと思うほど、そこにすっぽりはまっていく。嫌い、恐怖、意識する、逆にそこに近づく。

 

世の中の年代に応じたイメージはだいぶいいかげんになってきたが、個人のなかには漠然と描くものはある。良き理想ならそこへ近づく動機になるし、悪い理想?はそこにとらわれまいと排除して差別的な発言にもつながることもある。気にしないのがいちばんだ。難しいけど。そんなひともいるんだな、ぐらいで。

 

思春期って(何歳まで?)嫌なものをイヤイヤいいたくなる時期だ。それをSNSに書いてしまうと、あっという間に社会的に攻撃される。だからどんなに嫌で嫌でたまらないことがあっても、ぐっと我慢して、アナログなノートに書き付けよう。時間がたてばシュレッターにいれることも忘れずに。もっと時間がたてば笑い話や反省材料になるだろう。

 

嫌なことを認識するなというわけではない。自分が好きなもの、嫌なものを理解しておくのは、他者が価値観などがぶつかったときに役にたつ。そこで自分の基準がおかしいと感じたら変えていくし、いややはりこれは大切なことだと思うなら残していく。何歳になっても、何歳になっても、その衝突と再構築はひとそれぞれの規模で続いていく。何歳になっても、だ。大変で面倒くさいことではあるけれど、それをまったくしなくていい境地になるには、あらゆる煩悩を捨てるか、完全に他人のいいなりになるかである。年齢で拒否、なんて言ってると、後者になってしまうよ。

 

 

当事者にはなれないけども

 だいぶむかしに読んだかなり短い短編小説集のなかに、当事者の話があった。短編なので何の当事者かははっきりと説明されていない。その当事者の近くにいる者と当事者のことが、簡潔に記述されていたと思う。


 ある我が家にふりかかった大きな出来事のときに、私は当事者になったのだけど、本当に悪銭苦闘して問題に対処していたのは、自分の保護者たちであって、自分は当事者であり当事者ではなかった。


 重い病気とか、難しい病気とか、金銭や人間関係のトラブルや、子どもがいるとか、いないとか、いろんな当事者に誰もがなっている。「〜〜じゃなきゃわからない」という人は、相手を拒絶しているか、甘えている。いわれたほうは、つきあいをつづけるか、どうつきあうか、それはそれぞれ別の当事者である自分で決めればいい。だめなときはとりあえずサスペンド


 当事者でなければ分からない問題、不便なことを表明する意味は大きい。言わなくて我慢した人は、他の当事者の話も聞けなくなる。いいあらわせば、もしかして解決するかもしれないし(本人に問題がある場合でも)、解決しないかもしれないけれど。誰かひとり、ふたりの身近な人に話しても愚痴でおわって塵芥になってしまうので、インターネットの大海に投げるのがいい。


 いろんな当事者が発生したら、当事者の意味も変わってくるかもしれない。あなたはあなた、わたしはわたし。そんなふうな区別が曖昧になる時代もくるかもしれない。